#092 “Oh Peter, Oh Kazuo” 今も聞こえるあの懐かしい声(4)
野田一夫
インタビュアー/藤島秀記
ドラッカーという人
藤島 『断絶の時代』は初版を5000部しか出さないのに、予約が2万部来ちゃったんですよ。その予約者に『ドラッカーの日本観』という小冊子をつくって贈呈しました。この小冊子の冒頭に野田先生の言葉があるのですが、こう書いてあります。「ドラッカーは学者というにはあまりにも思想家的な、また思想家というにはあまりにも実際家的な、そして実際家的というにはあまりにも学者的な、幅広い活動領域を持つスケールの大きな文化人である」と。
野田 僕自身のドラッカーへの最初の印象だった。よく当たっているだろう。
藤島 この言葉は今でもドラッカーを一言で言い尽くしています。
野田 ドラッカーの本は問題意識を持っている人が読むと、大きなヒントを得られると思う。とくに経営者はそうだ。僕自身は自分が訳した3、4冊の本と、あとは数冊しか読んでない。しかしドラッカーという人は、僕が出会った中でも本当に頭のいい人だった。日本の頭がいい人とは付き合いにくいけど、彼は本当に面白く会っていて楽しい人だった。ピーター・ドラッカーの冗談集が書きたいくらいだ。
藤島 残念ながら、ドラッカーさんを知る人もすっかり少なくなりました。
野田 もうほとんどいないね。僕は先祖に感謝しないといけないな。僕はもう88歳だよ。
藤島 がんばってドラッカーさんを超えてください。僕は初めてアメリカ行ったときに、野田先生はMITにいて三菱商事の鶴見直輔さんも一緒に飲みにいきましたね。みんな若かった。
野田 当時、僕はスローンスクールにいたので、学部長と一緒に毎週のように日本から来た経営視察団の案内をすることになりました。まさにアメリカにおける事業部長のようだったね。一番印象に残っているのは電通の創業者・吉田秀雄さんだった。「君、今夜あいているかい? ホテルで食事しよう」ということでご馳走になった。懐かしいな。
ハーマン・カーン
藤島 2回目にアメリカに行ったときは野田先生と一緒にハドソン研究所のハーマン・カーンを訪ねましたね。僕の目的は当時ハーマン・カーンが書いている本があって、その翻訳権を当時のダイヤモンド社が頂戴することにありました。初めは野田先生に訳してもらえると思っていましたが「俺はやらねえ」って断られ、結局、一橋の坂本二郎さんと翻訳家の風間禎三郎さんの2人に訳してもらいました。この本は『超大国日本の挑戦』という書名で出版してベストセラーになりました。
野田 そう、二郎ちゃんが訳したんだよな。彼はその時期、未来学をやっていた。僕はシンクタンクを作ろうと思っていたので、ハドソン研究所を参考にしたかった。確かハーマン・カーンを紹介してくれたのはピーター・ドラッカーだったんではない?
藤島 ハドソン研究所に行くとき、出たばかりの「フォード・ムスタングを借りろ」ということで、野田先生が運転してハイウェイをぶっ飛ばしましたね。こわかった。随分待たされて、現れたのは巨人のように大きな人で、あれには驚きました。
野田 あのころは僕もかなり勇敢だったな。それにしてもハドソン研究所はいい街だった。大きな屋敷があって、今は場所が移ったけどあの研究所は、いい建物だったね。到着してハーマン・カーンは遅刻して現れたんだけど、彼はとても太っていて、猛獣みたいに「ハッ、ハッ、ハッ」と声が聞こえてやってきた。あれにはびっくりしたな。それにしても僕も案外アクティブな人生を送ってきたもんだ。忙しいけどちゃんと講義もしたしね。
藤島 当時アメリカに行くというので、ダイヤモンド社は僕に会話の勉強させるんです。即席にベルリッツに通わさせられました。ところが会話を習ったからといって、実際に使うとなるとそう簡単ではないわけです。隣に野田先生がいて、随分助けてもらいました。
野田 僕も英語には苦労したね。でも当時は本当に運がよかった。立教に行った直後でまだ30歳くらい。MITのことをまったく知らなかった。親父は理系なので知っていたけど、MITに経営があることすら知らなかった。1年ということで行ったけど、もう1年いないかといわれて、結局2年間過ごしたのが良かった。立教に感謝しないといけないね。ところであなたはダイヤモンドをいつ辞めたの?
藤島 ダイヤモンド社が、国際経営研究所を1985年に作って、社長で行ったのですが、ドラッカーさんに名誉研究所長になっていただきました。その後2005年にドラッカーさんが亡くなってしまって研究所をやめました。だからダイヤモンドを正式に辞めたのは2005年ということになります。先生にお会いして40年以上になりますが、いつも若く元気でいいですね。
野田 外部の人は88歳にもなって、講演したりゴルフをしたりするとは思わないだろうな。今日もこの後、あなたと分かれたらニュービジネス協会30周年記念大会があって、スピーチをすることになっています。僕は初代の代表なのだが、2代、3代、4代と亡くなり、5代と6代は生きているけれどもう歩けない。7代目が池田弘で東京の会長が下村さん。結局僕にスピーチのお鉢が回ってきた。
藤島 今日は懐かしい話をいろいろありがとうございました。
インタビューを終えて/藤島 秀記
野田一夫さんと私との交流は、かれこれ半世紀近くになる。私が20代の雑誌や書籍の編集者のころからお師匠さん的存在だった。だから大学時代の教師は別にして、社会人になって「先生」と呼べる数少ない一人である。アメリカに始めてご一緒していただいたのも野田先生だったし、またドラッカー教授とご縁が深くなれたのも野田先生に遠因がある。
野田先生のドラッカー観は、このインタビューを読まれた方はお気づきかと思うが、きわめて親しい関係からファースト・ネームで呼び合える、日本では数少ない一人である。著作を通してのドラッカー観であるよりも、生の人間ドラッカーを通してドラッカーの本質をつかれている。太鼓は叩く人によって自在な音色を響かせるものだ。
歯に衣を着せぬ語り口は、若い頃から相手容赦なく向けられた。その鋭い舌鋒は恐らくドラッカー教授にも遠慮なく向けられたものと想像する。そうした“KAZUO”を、ドラッカー教授は本音で話せる楽しい友として迎えたのであろう。
野田先生は最後に、わがドラッカー学会会員に個人の希望として、大略次のように述べられている。「ドラッカーは素晴らしい。彼の本を読破するだけが目的ではいけない。彼の主張を理解し、個人に社会に役立ててこそ価値があることを忘れないで欲しい」と。
われらの大先輩の願いを皆でかなえようではないか。