#046  [対談]学びの達人ドラッカー(その2)

(承前)

教育者としてのドラッカー

井坂 確かにそうですね。

強みの発見や培養とも関係があると思うのですけれど、どこが伸びていくかなんて事前にはわからないのです。何がうまくいくかも事前にはわからない。だから青写真には意味がないのです。

そのこともあって、よくわからないけれど、何か実際に行ったときに、生産的な一点を見きわめるのがだいじなんでしょうね。

ゲーテなんかも観察の達人だったわけですが、人も社会も自然もあらゆるものごとには生産的な核みたいなものがあると考えていました。

ゲーテは「プレグナントな点」と呼んでいるわけです。プレグナントというのは、妊娠した状態ですね。内部にありながら、外に出ることを求めている熱の固まりみたいなものがあったら、意識して育てていかなくてはいけないと。

これなんかは、とても深遠でありながら、神秘的なもう一つの真実を語っていると思います。

強みというのは、自分の中に潜んでいる秘密の回廊みたいなものなんでしょうね。その先に何があるかは自分でさえ知らない。

そう、プレグナントというともう一つ思い出すのが、プラトンの本に出てくる話です。『饗宴』だったと思いますけどプラトンによれば、男女関係なく、誰もが不完全ながら妊娠しているわけです。もちろん比喩的な意味ですよ。精神的には、自分の半身を求めていて、人とのかかわりのなかで、自分の心に熱をわかちあたえてくれる人を探しているという。

そして、熱をともしてもらったら、それを大切にして、子供みたいにみんなで育てていく。確かそんな話だったと思います。

ちょっとむずかしい話になってしまいましたけど、要は、私たちの生活や仕事というのは、古代ギリシアとかゲーテの世界から受け継がれている継承物でもあるということです。

同時に未来の人々からお預かりしているものでもあって、私はドラッカーの言ったことは思想として解釈するとものすごい遺産だという気がするんですね。とても親しみやすい言葉で書かれているし、ビジネスとか経営について書いているから、一見するとありふれたものごとを語っているだけに見えるんです。

けれども、ありふれたことがあふれた理説として受け入れられていること自体が、ぜんぜんありふれたことではないんです。

ありふれたことに見えていること自体が、とてつもなくすごいことなのです。

 

大手腕が料理した卵焼き

比喩としてはよくないかもしれないけど、天才的な手腕によって料理された卵焼きみたいなものかもしれない。やはり見る人が見れば、それがふつうでないことはわかるんです。

たぶん今中高年の男性以外に学び手が広がっているのは、ドラッカーの卵焼きのすごさにいろんな人が気づき始めているからのようにも感じます。実際に毎日食べてみればわかるのだと思う。とくに若い人とか女性は、パッケージに反応しないで、実物に反応するでしょう。

少しばかり話は脱線しますけれど、近代以降、人は目に覆いをかけられてきました。

ギリシア神話にプロクルステスの寝台というのがあって、旅人を誘い込む悪いやつなんだけれども、ベッドに寝かせるんですね。そして旅人の体がベッドより長かったら、余分なところを切断するし、小さかったらベッドの長さまで引き延ばして殺してしまうという。

わりに戦後もそうだけれど、近代というのは合理という尺度が先にあって、そこに人間を当てはめて評価するという傾向が強いわけですね。それが壮大な体系になるといわゆるイデオロギーというものになって、社会主義とか共産主義とか、あるいはナチズムとかいうかたちで人の自由を縛り上げていきます。

正確にいうと資本主義もその亜種なんだけれども、フレームにはまるかはまらないかだけが判断基準の社会はとても生きにくいです。人が中心にいるわけではないですから当たり前です。

けれども、強みというのは人間の側にあるものなので、どこまでいっても人間の論理なんですね。しかも、自由な社会でしか強みは発揮されないし、強みの発揮されない社会は自由な社会ではないという関係性にあると思います。

ちょっと前まで、工場とか集団主義労働が幅を利かせていた時代なんかでは、人の強みなんてはっきりいって無意味どころか、脅威だったのです。

そうでしょう? だって工場なんかで労働者が俺の強みはなんて問いだしたら、どうなりますか。生産ラインがストップしてしまう。これでは困るわけです。

強みが意味をもちはじめたのは最近のこと

つまり強みが本当に意味をもちはじめたのはつい昨日のことです。強みっていうとなんだか大昔からあるみたいだけれど、個としてはともかく、社会的に意味をもちはじめたのはごくごく最近のことだということは強調していい事実だと思います。

もちろんイデオロギーという洗脳装置にだまされない人々も社会にはいますね。だましにくい人たちです。

ミヒャエル・エンデの『モモ』には、人々の無意識に入り込んで、物質主義のイデオロギーで汚染する「灰色の男たち」というのが出てきます。彼らの信条の中に、「子供に手を出すな」というものがあります。

なかなか象徴的だと思うのですが、子供とか若い人、それから女性などは「主義」の論理に汚染されていない人が比較的に多いのだと思います。

うっかりすると、世の男性は肩書きとか能書きにだまされてしまうのだけれど、今ドラッカーを手にしている人たちの多くは、そういうパッケージにだまされない生身の感性を信頼している人たちなのかもしれない。

今、現代を取り巻くものの考え方がそこまできたということを、ドラッカーの読まれ方からも見て取ることができます。

プロクルステスの寝台

五島 へぇー!!! それはめちゃめちゃ面白いお話ですね! 妊娠した状態、内部にありながら、外に出ていることを求めている熱のかたまり。それを生み出すため(外でも生きていくため)には、適切な大きさまで育たせるのも大切ということもあるわけですね。なるほど〜。

それにしても、ゲーテ。

昔詩集を読んだことぐらいしかなかったのですが(しかも全然覚えてないのですが)、井坂さんからゲーテのお話教えていただく度に、ものすごく面白くて興味深い方です。ゲーテもまた生きる営み全部がつながってた方なんでしょうね。

プロクルステスの寝台、絶対寝たくないです。でも、確かに私の小さい頃とかでも、「みんな違ってみんないい」って教科書や先生も口では言うんだけど、実感としては全然そんなことなかった。

私が問題児だったと言ってしまえばそれまでですが(笑)、中学校の先生からは「お前は変わってるから、みんなに同じ意見を求めるのは無理だ」とかって言われて、結構ショックで。どうしたらいいんだろう、どうしたら普通って言ってもらえるんだろうって、それこそ、性格変えてみようとか、いい人の真似したりとか、いろいろやりました(笑)。そしたら、今度は自分の意見がわからなくなっちゃったりして。

だから今こうして自分が思ったこと言って、やってってできる環境というのは、夢みたいだったりもしてます。大学時代のことですが、「あなたのその感性はすごくいい」って言ってくれた方がいて、しかも言うだけじゃなくて、それを生かす場を本当につくってくださった。

その時にやっと、自分でいても、人と違っててもいいんだ、むしろそれがいい場もあるんだって思わせてもらったような気がします。その方は私に限らず、人のいいところしかみないんです。そして何か問題が起こってもそれを機会に変えてしまう。ドラッカーに出会う前の出来事でしたが、まさにドラッカー的ですよね。とても感謝しています。

私はドラッカーの中でもフィードバックが大好きなんです。趣味ぐらいに。そして私の周りだけかもしれないですが、女の人には、フィードバックの反応や効果がものすごくいいんです。でも男性は読んだり語ったりする割には意外と取り組まれてない方が多い。ドラッカー難しいって言われるのも男性が多いです。女性は難しそうって最初は言いながらも、読んだら自分が気に入ったとこからなんとなく軽やかにどんどん使っちゃう印象があります。面白いなぁって思います。

 

変わってていい

井坂 たぶんドラッカーなら、「変わってていいんじゃない? オレも変わってたし。ていうか、少々変わってなかったら質の高い観察なんてできないよ」と言うのではないでしょうか。

変わっているというのは、言い換えれば多様性を身をもって示しているということで、多様性は何より社会の生存可能性を高めてくれることです。

べつに慰めで言っているわけではなくて、みんなが同じものを見ている社会は危険な社会です。変わっているということは、人が見ていないものを見てるから変わっているわけですよね。

むしろ、人が見ていないものが見えてしまう人は、それを見ることがその人にとっての使命や義務だとさえ思います。

船の乗組員がみんな同じ方向を見ていたら、想像もできない角度から来る大波とか、流氷なんかで転覆してしまいます。

逆に言うと、変わっているのなら、その変わり方を世の中のためにどう利用できるかを考えるべきなのでしょうね(「利用する」って大好きな言葉です笑)

似た話で言うと、「大きな失敗をしたことのない者を組織の上につけてはいけない」とも言ってくれています。これも慰めで言っているわけではありません。ドラッカーは鋭くてクールな知性の持ち主で、感傷主義者ではありませんから。

失敗をした人は、まず「自分は失敗したんだ」っていうとても認めにくいことを認めている。考えてみればすごいことです。それだけで認識レベルの高い人だと思います。フィードバックができているわけですから。

ちなみに、失敗を認めない人ってふつうですよ。私の知っている人で、大々的に雑誌を立ち上げて、ぜんぜん売れなくて、資金が続かなくて廃刊になったのに、失敗を認めなかった人がいます。そういう人は次も同じ失敗をします。

失敗自体も財産なんですけれど、失敗を認められることが次につながるという、シンプルな理路。現実にいろんなことをしてれば、失敗なんてざらです。仕事をしにいってるのか失敗をしにいっているのかわからないくらいです。失敗はいくらか授業料の高い意地悪な教師に似ています。

もちろんドラッカーは失敗からは学べないと言っていて、成功から学ぶべきだという。そのとおりだと思います。でもそれは失敗という認識をもたないというのではない。病識がなければ治療のしようがないように、失敗を認めた上でそこから学ばないのだという断固たる意思があるように感じます。ちょっとややこしいのですが。

マネジメントの場としての学校生活

五島 私はどうしても小・中学生頃の体験が元になっての話になりますが、小・中学生の頃って自分をどう社会に使えるかなんて考える術もなくて、当時でいう社会は学校内で、その活動の中でなにかできるのかと言うと、それは私にとっては結構難しいものでした。

でも、そんな風にもし先生に言ってもらえたら、それはすごくすごく希望をくれることになったと思います。留年もしないで済んだかもしれません(私は同じ高校で、1年生を2回やっています(笑)

ただ、すごくありがたかったのは、私の家族です。私の家族は、お互いに対して比較も強制もしないし、良いとか悪いとかも言わないんです。「あなたはこういう方が好きだよね」「私はこれが好き」って、それぞれ別のことしながら、それでいて家族として生活してる。

そんな家庭でそれが普通だと育ったから、学校に行ったら、それが通用しなかったとも言えますが、逆に家がすごく居心地悪い場所だったら、どんどん自分っていうものは閉じ込められていくんじゃないかなと思います。

失敗の話から思うのは、まず何よりも目的をどう設定されているかですね。ドラッカーも書いてるように、「なすべきことはなにか」それから、「なにを期待するか」。どう考えても失敗でしょうと思うことでも、本人の目的によっては、一部小さな成果を生んでることもある。逆に、成功に見えるだけで、内情は全然ダメなこともある。

次につなげるには、まずは目的を明確にすること、そこからやってみて、そしてフィードバックする。そこで気づきや学びがあり、その流れがあるから、次に、大きなものへとつながっていくのかなと思います。

次の打席があるか

それから、もう1つ。

これは当事者もですが、周りの環境として。

「次の打席があるかどうか」

バット振らなきゃ当たらないけど、失敗して、もう2度と打席に立たせてもらえないとしたら、その貴重な1回の打席にって、なかなか自分からは立ちにくい。もう次がないって思っちゃうから、なかなか挑戦自体ができない。高校生や大学生と話していると、特にそんな風に感じます。

会社でも同じだと思うのですが、「失敗したから、お前はもう使えない、いらないっ」そこまではっきり言う人は少ないかもしれないですが、仕事の失敗なのに、人格全部否定されているような言われ方や態度をされると、仮に上司がそんなつもりなかったとしても、部下や学校で言えば子供心には非常に堪えます。

その結果、どんどん顔色を伺うことばかり意識するようになって、結果言えなくなっていっちゃう。それは自分も含め、周りでも多く見てきました。だから、人になにかをやってもらうときや、人の成長に関わるときは、最初から次の打席をきちんと用意しておくことと、コミュニケーションするときには、「大工の言葉」を使うことが大切だと思います。

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