#072 人間ドラッカー博士の思い出(その6)

斉藤勝義(清流出版(株)出版部顧問)

 

この連載も今回で最終回である。そこで今回はドラッカー博士の思い出の中で今でもよく思い出されるエピソードを書きたいと思う。

エピソードⅠ:強みを生かす

ドラッカー博士の経営戦略の一つに「強みを生かす」という至言がありますが、この話を裏付けるような話があった。

1978年(昭和58年)、田中内閣が北京で日中平和友好条約に調印された。その後日本の多くの企業が中国に工場を移した。

1980年、ドラッカー博士が71歳の時、東京で「乱気流時代の経営」について講演をされた。講演が終わり、控室でお茶を飲んでおられるところに以前から親しくされておられる某大企業の社長が「ドラッカー先生、講演を拝聴しました。今度わが社の工場を中国に移すことに決めました」と誇らしげに語った。ドラッカー博士はじっと話を聴いておられた。そして話が終わった時に「Kさん、おめでとうございます」と皮肉そうに言い、「なんで工場を中国に移されたのですか」と尋ねた。「ドラッカー先生、labor cost(人件費)が日本の十分の一以下で安く、日本人を一人雇う賃金で中国では10人以上を雇えます」などと話された。

ドラッカー博士は、「あなたの会社の特性が何故中国で高められるのか、人件費が今安いという理由だけでの工場移転には賛成しかねる。それだけの理由であれば、いずれ悔やむことになるだろう」と警戒的な言葉を発していた。しかし、K社の工場移転は一年前から始まっていた。今からほぼ40年前のことである。

エピソードⅡ:京都の舞妓さんとの初対面

1989年、ドラッカー博士が80歳の時に訪日され、東京での講演の後、京都の某大手企業が自社及び関連企業を対象にしたクローズドセミナーを開いた。

セミナーは午前中に終わり、ドラッカー博士は出席された会社の役員と一緒に昼食をとった。ビールも飲んでいたので話が弾み、質問なども交わされ、冗談話もされた。食事会も終わりに近づいたときに、役員の一人が「ドラッカー先生は、京都では神社仏閣は勿論、美術館などもご覧になっておられますが、京都でまだ見ていないものや見たいものはありますか? それは何ですか?」と気楽に質問をした。ドラッカー博士は一寸考えた後に、冗談半分で笑いながら「マイコサン」と言った。その役員は、「ヤングゲイシャ?」と聞き返した。ドラッカー博士は「イエス、マイコサン」と繰り返したので、その役員は仲間の役員と話し合った。しかし、昼はそのような料亭はやっていないのではないかという話になった。

しかし、せっかくドラッカー博士が京都に来られて見てみたいということであれば何とかして願いを叶えてやりたいということになり、会長なら顔が広いのでどこか知っているかも知れないということになった。会長に電話で相談して、特別の計らいで2時半から1時間だけ料亭を開けて貰うことができた。

案内された料亭は、美しい庭園のある静かな場所で落ち着いた雰囲気が感じられた。玄関で靴を脱ぎ、案内されたところはステージのある広間であった。お膳が4席分並べられており、そこにドラッカー博士と会社の役員二人と私が座らされた、待つこと数分、綺麗に着飾った愛らしい女性と付き添いのオカーサンという方が静かに入って来られ、ドラッカー博士の隣に舞妓さんが座られた。ドラッカー博士も一寸恥ずかしそうにどぎまぎして「オー、ビューティフル!」と小声ながら感嘆の声を上げた。

これが、ドラッカー博士が舞妓さんを直に拝見した瞬間であった。博士の顔も一瞬赤らんだ感じがした。

エピソードⅢ:ドラッカーの後にも先にもドラッカーはない

1986年、ドラッカー博士が77歳の時、ドラッカーの水墨名作コレクションが、東京、大阪、名古屋で開かれた。

東京では、根津美術館で開かれた。ドラッカー博士は、美術館の担当部長やスタッフとも親しく付き合っておられた。古美術を買う時にはいつも相談しアドバイスを貰っておられたようである。ドラッカー博士がドリス夫人と一緒に根津美術館館長にお会いして展示会のお礼を述べた後、昼食の時間にドラッカー夫妻が宿泊先のホテル・オークラの中華料理店に部長とスタッフを招待した。

昼食中に色々な話が交わされた。その中でスタッフの一人が、「ドラッカー先生、先生の後継者(After Drucker)は、何方になりますか?」と質問をした。ドラッカー博士は急な予期しない質問だったので一瞬戸惑って「ドリス」と言った。ドリス夫人は「ノー、ノー、私はマネジメントや、ピーターのやっていることは全然知らない」と笑い飛ばした。それで私は、「クレアモント大学の教授か、誰かいませんか?」と聞き返した。それでもドラッカー博士からの答えが出なかったが、暫くして「コリンズかな、コリンズは私の仕事をよく勉強している。Collins, Could be … 」と言われたのが思い出される。

その後でドラッカー博士は、「自分は派閥や特別なグループは作りたくない。自分自身を大切にしている。ある意味では孤独な人間かも知れない」と言われた。「私のことを一番理解しているのは、ここにいるドリスだ」と付け加えた。

結び

ドラッカー博士は、身近に接して観察すればするほどスケールの大きい文化人だと思われた。ドラッカー博士は、大学教授であり、思想家であり、また実務家的なところもあったし、ライター(作家)的な力もあった。親切で思いやりがあり、学究的なスケールが大きく、幅広い活動領域をカバーしておられた。これは、ドラッカー博士が生まれ育った時代背景を読んでみると頷ける点が多くある。

詳しくは別の書籍に譲るが、ドラッカー博士は、1909年11月にウィーンに生まれ、大激動のヨーロッパで多感な少年・青年時代を過ごし、1937年にドリスさんの一言で米国へ渡り、1959年、50歳の時に初来日をした。

初来日の際、京都の立石電機(現オムロン)を訪問し、京都の文化に引き付けられて以来2年置き位に来日して、日本の文化、経済、政治、企業組織などを全て学びとっておられた。当時日本人の多くは仕事以外には余裕がなく考えられなかったが、ドラッカー博士は古代の墨絵や美術品に興味を持ち、余暇を見つけてはドリス夫人を伴って、東京、京都、奈良その他の地方に行かれておられた。

このようにドラッカー博士は、ヨーロッパ、米国、日本を広く深く見聞し、実体験をされたという点で、20世紀を生き抜いた生き証人と言っても過言ではない。ノーベル賞を頂くに値する人物であったと思う。

 

 

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