#077 なぜ、ふたたびドラッカーなのか?(2)

西條剛央(早稲田大学大学院(MBA)客員准教授)
井坂康志(本サイト運営者)

■過度な競争原理に巻き込まれることが本質を見失わせる

--西條先生も私も早稲田大学で学んだわけですが、かつて私は学内の広報誌を偶然図書館で手にしたことを思い出します。ふと目に止まった記事ですが、定量的な医療経済学を何十年も研究してきたある先生が定年に際してものした手記でした。その先生は厳密な理論を研究して、大学院を出て比較的スムーズにアカデミックなポストを得たと言うのです。そして、その学問に生涯を捧げたわけなのですけれども、定年に当たって、今までそれによって心の満足を得たことはなかったと書かれていました。私はその先生の告白を勇気あるものに感じました。

西條 その話を聞いて思い出しました。かつて養老孟司先生をあるイベントでお呼びしたのです。池田清彦先生との対談だったのですが、養老先生がおっしゃるには、東京大学を退官したときに、建物の外に出たら、世界がなぜかそれまでと違って非常に鮮やかにカラフルに見えたというのです。そのことを帰って奥様にお話ししたら、「私はずっとそういう風にみえてるわよ」と返されて、いかに自分が大学の世界を窮屈に感じていたかを改めて実感したと。そういって養老先生は笑っておられましたが、そうした先生方の在職時は、私たちの時代よりもはるかに強い規範があったのでしょうから、もし私もその時代に生まれていたら同じようになっていたのかもしれません。

--灰色の学問というか、ゲーテの『ファウスト』を思わせる世界ですね。

西條 けれども、私は学問の現状に何かおかしいという違和感を持ち続けてきました。一つの例として聞いていただきたいのですが、私は「抱っこの研究」で博士号を取得しています。最初の論文は英語で書きました。その頃英語はまったく話せませんでしたが、理系の論文は意外に書くのは簡単なんです。抱っこの研究は世界的にみるとほとんどが「抱っこの左右の優位性」に関するものばかりです。世界中で見ると、左側の胸でだっこする人のほうが多い。概ね6割ほどが左だというのです。しかし、マダガスカルだけ、右側の胸でだっこする人がやや多いという論文がありました。タイで私が調査をしたら、やはり右側の方が多いと言うことがわかった。どうでもいい研究だとは思いつつも、論文にはなるとと思って、実際に書いて投稿しました。結果はレビュワーの評価が1:2で割れて「リジェクト」(掲載不可)だったのですが、修正して他のジャーナルに再投稿すればいずれ掲載されたと思います。

でも、本当は社会に出しても出さなくてもいいような「研究のための研究」であることは自分でわかっていたのです。左側で、あるいは右側で抱っこする人が多いから何なの? という話ですね(笑)。それでも、海外のジャーナルなら、自分の世界と関係ないから、まあいいだろうと思っていたんですね。けど、そんな話を大学院の友人にしたら、「でも、海外の研究者からすると西條君はそういう研究だけしていると思われてしまうよ」と言われて、それは嫌だと思って、お蔵入りさせることにしました(笑)。

その後は、実証研究を行いながらも、そもそも「抱っこという行為とは何か」という抱っこの本質に迫ろうと博士論文としてまとめました(『母子間の抱きの人間科学的研究』(北大路書房)参照)。

ともあれ、かりに本質的には意味のない研究であっても、海外のジャーナルに論文が掲載されれば、学者としての地位はものすごく有利になるのです。ですから、論文の数というのは、会社で言えば「収益」みたいなものです。それがまったくなければ研究者としてはやっていけない。業績の尺度としてとても大切なものなわけです。

だから、中身が何であれ収益=論文数を最大化させようとしてしまう。しかし、研究を通して社会に資することが本質なのであって、業績数は本質的なものではない。企業経営の研究をしている経営学者も、多くの経営者と同じように、競争原理や経済原理に巻き込まれてしまうと、あっさりと本質を見失ってしまうわけです。

■思い込みの呪縛からの解放

--私は20代のはじめにドラッカーを読むようになりました。学部までは比較的に理論に関心があると自分では思っていたのですが、ドラッカーを読んだときえもいわれぬ開放感を覚えたことを今でも覚えています。心の奥にあるひどく渇いたところ、しかもなかなかふつうの言葉では届かないような絶妙なポイントに純度の高い水を送り込まれた気持ちでした。後になって思ったのですが、ドラッカーの言葉というのは、ある種のモダニズムの洗脳に対する強力な解毒作用をもっているのかもしれません。

西條 そうですね。彼は本当のことを惜しげもなく言ってくれる。だから、浄化される感覚が読み手に出てくるのでしょう。

-- 先ほどの学問論でいうとどのように考えられるでしょうか。

西條 ドラッカーは証券会社に勤めているとき、当時の最新の統計モデルを使って株式市場を分析して論文を書いたのですが、その直後に世界恐慌が起きて、前提が崩れた統計学がまるで役に立たないことを痛感して、そうした研究に早々に見切りをつけたと書かれていたのを読んでその本質を見抜く力には驚かされました。

私もわりと早くから「科学的実証研究」の限界に気づいていました。しかし、一般的には「科学的研究」と銘打つと聞こえはいいわけです。それが現在の社会科学の主流であるわけですが、その科学性なるものを哲学的につきつめていくと限界があるのも確かなのです。社会科学にあって顕著なのは、対象が変化してしまうと言うことです。これは厳然たる事実です。

たとえば、「原発に対する安全性の意識調査」などは、どんなに科学性に配慮したところで、2010 年と現在を比較すればまったく一般化できない。そしてジャーナルに論文を投稿するのには、たいてい審査その他のやりとりで一年以上は軽くかかります。数年かかることもめずらしくありません。たとえば、かりに投稿から3年後に運良くジャーナルに掲載されたとしても、その頃には社会は確実に変わってしまっているわけです。なのに誰も文句を言わない。なぜなら、論文は社会に役立てるものという意識がまったく希薄だからです。

本当にあった話です。ある権威ある心理学会のジャーナルの号が、何かの手違いで前号とまったく同じ印刷製本のうえ送付されたそうです。にもかかわらず、それを指摘した人は誰もいなかった。誰も読んでいないばかりか封も切っていなかった(笑)。冗談のような話しですが、こうしたことも、アカデミズムのジャーナルが研究者の業績稼ぎのための場に終止してしまっているということを傍証していると思います。

■人は関心に応じてテクストを読む

-- ドラッカーの中にはそのような「学術的」な知の世界とひき比べて、「真摯さ」とか「強み」とか「すでに起こった未来」とか、定量性など歯牙にもかけない、なのに不思議な迫力を伴う言葉が次から次へと出てくるのですね。

西條 そうですね。ドラッカーは数々の本質的な言明を残しました。一方で、ドラッカーの言説は、数学的な公式として表現されているわけではないため、様々な解釈を許すところもあります。たとえば、ドラッカーの言う「強み」には明確な定義がない。ドラッカーは次のようなことを言っています。『明日を支配するもの』にある一節です。

「並の分野での能力の向上に無駄な時間を使うことをやめることである。強みに集中すべきである。無能を並の水準にするためには、一流を超一流にするよりも、はるかに多くのエネルギーを必要とする。しかるに、あまりに多くの人たち、組織、そして学校の先生方が、無能を並にすることに懸命になりすぎている。資源にしても時間にしても、強みをもとにスターを生むために使わなければならない」。

とにかく徹底的に強みを見よとドラッカーは言うわけです。以前、読んだときはここが目に入ってきたのですね。人間は関心に応じて世界を認識して、価値を見出します。「英語の勉強をせずにすませたい」という自身の関心から、「ドラッカーもこう言っていることだし、苦手の英語はやらなくていいか」という信念を補強するものとして読んでしまったわけです(笑)。

しかし、World Wide WebやWikipediaなどが受賞したデジタルメディアアートの世界最高賞を受賞したことをきっかけに、構造構成主義(エッセンシャル・マネジメント)を世界に広めていくためにはやはり英語で発信していかないといけないなと思うようになりました。「英語で構造構成主義を発信していきたい」と関心が変わったわけです。

それで、構造構成主義の原理をはじめとしたセルフマネジメントに応用することで、半年間でMBAの留学生への英語の授業を成功させました。そして、今ではその経験と理論をもとにLEVERESTという半年間で英語が話せるようになる一般プログラムを構築し、提供しています。そんな風に関心が変わった今あらためて読み直してみたら、そのわずか2ページ前の次のような下りが目に入ってきました。

「知的な怠慢を改め、自らの強みを十分に発揮するうえで必要な技能と知識を身につけていかなければならない。(略)自らの悪癖を改めることである。自らが行っていること、あるいは行っていないことのうち、仕事ぶりを改善し成果を上げるうえで邪魔になっていることを改めなければならない。」

このように、「成果を上げるうえで邪魔になっていることを改めなければならない」とはっきり書いてあったわけです。しかし、以前読んだときは自分の関心から都合のよいところだけを読んで、この箇所はスルーしてしまったわけです(笑)。

ドラッカーの読書会が全国で行われていますが、これのよいところは多様な解釈を前提としながらも、都合よく解釈することによる恣意的な解釈に陥らない読みができるところだと思います。

 

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