#067 人間ドラッカー博士の思い出(その1) 

斉藤勝義(清流出版(株)出版部顧問)

 

私は、43年間(1962~1995)ダイヤモンド社に勤務、外国著作権業務を担当していた。私の入社当時のダイヤモンド社は、経済関係の雑誌(週刊ダイヤモンド、他の経済に関する雑誌)と、時代をリードするビジネス書の出版に主力を注いでおり、従って外国、特に欧米で出版される著作物や著作者に注目していた。時の書籍出版編集長の地主氏は、米国で出版される著作物に興味を示し、鋭い発掘感覚の持ち主で、ドラッカー博士とその著作物も、その流れ中での出会いであったと思われる。

私とドラッカー夫妻との出会い

ドラッカー博士夫妻がダイヤモンド社の招きで訪日することが決り、業務上、私が羽田空港まで出迎えに行くことになった。訪日は、1964年の初秋の頃だったと記憶している。

顔も姿も知らないドラッカー博士と夫人を迎えるということで、大変緊張し不安だった。手書きの「WELCOME, Dr. Drucker & Mrs. Drucker」というプラカードを持ち、入国ロビーで待った。一時間ほど待ち、心配になり、航空会社のカウンターで尋ねたら、ロサンジェルスからの便は風の影響で予定より30分ほど遅れて到着したので、現在通関手続き中と説明され、ほっとした。

間もなくドラッカー博士夫妻らしき二人が、私の持っているプラカードに向かって重そうな荷物を引っ張りながらやって来た。「オオ、サイトさん、サンキューフォーカミング」と、お二人が笑顔を浮かべて握手の手を差し出された。その時の握手の握力の強さと、眼鏡を通しての眼光の鋭さは印象深いものだった。私は思わず「Dr. Drucker, welcome to Tokyo」というのが精一杯の歓迎の言葉であった。その後は互いにほっとした気分になり、雑談をしながら待たせてあった日本交通のハイヤーでホテル・オークラに向かった。

アメリカ行きの動因

ドラッカー博士は強固な骨格を持ち、背丈が高く、気品ある風格を持つ西欧の良きジェントルマンである。ドリスさんが恋に落ちたのも頷ける。ドラッカー博士はロマンチストでもある。ドラッカー博士がドリスさんを呼ぶときは、少し鼻にかかった声で「ドーリス、ドーリス」と呼びかけ、これに対してドリスさんは「ピーター、ピーター」と笑顔で応対していた。お二人の性格は多少違うところもあるようだが、価値観は一致しているので最終的な行動は一致する、理想的なカップルであった。

かつて、ポートエム社代表の国永秀男氏と夫人の圭香さんと共にドラッカー博士宅を訪問したことがあったが、夫人同士の心が通じ、ドリスさんが圭香さんに「Behind A Successful Husband, There Is A Sacrificed Woman(成功している夫の後ろには、犠牲となった女性がいる)」と書かれているTシャツをプレゼントしたことがあった。圭香さんは今でも大切に宝として持っておられるそうである。

1937年、ドラッカー博士はロンドンでの生活に不満をもち、悩んでドリスさんに相談したら、速断で「Peter, let’s go to America!」と云い、ドラッカー博士も迷わずその日にアメリカ行きを決めた。「ドリスがあの一言を言わなかったら私の運命は違ったものになっていただろう」とドラッカー博士が云ったことがある。「全て私の生活の転機はドリスが決めたものである。ドリスは私になくてはならない人」とも云っていた。

美術品査定の厳しさ

確かにドリスさんは決断が速く、すぐに行動に移す人だった。ホテルの外で夕食をとろうということになり、食べるものが天ぷらか寿司と決まれば、店を決めずに街に出かけ、その場で気に入った店で食べることもあった。

お二人の会話は、日本の古代美術品に関しての評価の話が多かった。大阪に一人、大宮に一人、信頼していた古美術商がおり、時間を見つけてはホテルに呼んで会っていた。私も、そのうちの一人、大宮の美術商に会ったことがある。美術商は、私に「ドラッカーさんは欲しいと思ったら直ぐ買いたがり、話は速いが、ドリスさんは鑑定が細かく値段の点でも厳しくなかなか商談がまとまらない。斉藤さん、ドリスさんをデパートかどこかに連れ出してもらえないか」と冗談半分に頼まれたことがあった。

ドリスさんの美術品査定の厳しさと値段交渉の厳しさには、ベテランの古美術商も音を上げていた。ドラッカー博士は訪日前に、二人の古美術商に欲しい作品を依頼していたようだ。同時に日本の古美術品について研究し、日本の有名な鑑定士にも連絡を取り、知人も多かったようだ。

ドラッカー邸にて。

  • ドラッカー学会 Drucker Workshop