#058 『傍観者の時代』の時代(2)
井坂康志(本サイト運営者)
悪を教導できるか
彼はフランクフルトを去り、短期間ウィーンにとどまってから、ロンドンに渡る。不吉な影はやすやすとドーヴァー海峡をわたり、執拗にドラッカーに追いすがる。彼の知人からある名物ジャーナリストの話を聞く。彼の名がシェイファーである。シェイファーは一流のジャーナリストとして転地先のニューヨークでも圧倒的名声を手にしていたが、それらを捨て、ナチス治下のドイツに戻り、ベルリンの有力紙の編集長に就任するのだという。周囲はもちろん反対する。けれども、シェイファーは翻意しない。
シェイファーのよりどころは良心である。自らが正義と良心をもってナチスを回心させうると信じている。うぬぼれや自信というにはあまりに高邁である。根拠もある。シェイファーには経験も理念も実績も、およそジャーナリストが持つべきあらゆる資質が備わっている。だからこそ、彼は自らの魂の武器たる言葉をもってナチスを教導しようと考えた。善意に満ちた教育的指導、これこそがシェイファーが目論んだことだった。
あえて言うまでもないことながら、賢明さを自覚する人間の掲げる正義ほどに卑小でやっかいで始末に負えないものはない。もちろんシェイファーはナチスにいいように使われ、やがて捨てられる。影はどんなに偉大な人間よりはかりしれず強大だから。悪の陳腐さ最後に、ドラッカーはアレントの有名な一節「悪の陳腐さ」を引用する。『イェルサレムのアイヒマン』の副題としても知られるフレーズだが、戦後アイヒマンをナチスの戦犯とする裁判で、アレントがそれを傍聴し発したものである。
一般の印象に反してアイヒマンにはなんら極悪非道の相貌も動機も能力も存在しなかった。彼は何をとっても私やあなたと同じごくふつうの人だった。むしろアイヒマンはナチスのきわめて有能なテクノクラートとして上層部からの命令に忠実に従い、自らの職務を勤勉かつ誠実に果たしていた。問題は職務内容だけだった。大量のユダヤ人を隔離し、鉄道で輸送し、収容し、虐殺することが命令の内容だったからだ。
陳腐なのは悪ではない
ドラッカーはアレントを批判する。というか、たしなめる。陳腐なのは悪ではない。人である。悪そのものはあくまでもはかりしれず強大なのだ。地獄には本当の意味での底はない。だから、いかなるかたちであっても、悪を利用したり手を組むのは誤りなのだと。
もちろんレトリックあるいはせいぜいのところ言葉のあやにすぎない。内心ではアレントの主張に賛同している。アレントが実物のアイヒマンを観察して言いたかったことも、まさにそのことにほかならなかったのだから。ただし、地獄を見た者のみに許される卓抜な洞見と言うべきだ。アレントもドラッカーも、ともに生年も同じ時代でドイツに暮らし、1933年にヨーロッパを出て、アメリカに生活の拠点を移している。同じものを見てきた二人なのだ。
ドラッカーなら、同じことを次のように言う。「ファイルされるだけの正しい答えや、実行に当たるべき人間に冷たく扱われる正しい解決策ほど役に立たないものはない」(『マネジメント』)
青年期ヨーロッパの陰惨な空の下で、彼は何をつかみ、何を得たか。それは一つの決意である。しかも断固たる決意である。救済への発意とさえ言っていいかもしれない。影の発生原因を究明し、いかにすればそれを阻止しうるのか。
いやそれだけでは十分でない。まったく十分でない。さらに進んで、影を育み肥大化させる好餌、すなわち「大衆の絶望」という負のエネルギーさえも、私たちの生きる世界の秩序を育て、養いうる正の力に変えることだ。
洪水を肥沃の農地に、火山活動を温泉の慰安に、灼熱の陽光を電力に変えるように――。
『 経済人の終わり』を彼に書かせたのはまさにこの決意だった。ささやかながら清冽な湧水が生じた。やがてそれはマネジメントという奔流として私たちの前で大河をなすにいたる。それは、不吉な悪夢の物語を浄化するもう一つの物語、魔物退治の物語なのかもしれない。
物語は終わっていない
最後に――。
彼はヘンシュとシェイファーを憎むのではない。愚かだとさげすむのでもない。いかなる負の感情も感じとることができない。
むしろ、ヘンシュもシェイファーも、それが結果として当人たちにはいささか負いかねる過重なものであったとはいえ、時代からの問いに彼らなりのしかたで応答したのである。影と戦い、傷つき、血みどろになり、一時は組み伏せたかに見え、やがて倒れ敗北した。ドラッカーの言葉の運びには、人の弱さへの同情のようなものがにじみ出ている。
言うまでもない。言葉と知識を主戦場とする闘争は、今なお決着はついていない。トーマス・マンのいうように、人の行うあらゆることは政治の語彙に置き換えられるのは確かだ。ただし、一つだけ例外がある。それは言葉である。言葉をめぐる戦争は、人の心の内部で戦われるものであるからだ。
現在の言葉をめぐる環境は、あの大戦時代とは大きく変化してしまった。むしろ苛烈さを増し、心の中の廃墟は広がっているように見える。そして、社会の存続に日々疑念を投げかけているように見える。そして、いっそうドラッカーが警告を発したテーゼ「言葉と知識が、人と社会の現実そのものであること」「それらへの関心の欠如が、ひいては両者を回復不能なまでに損なうこと」を仄めかし続けている。
おそらく最後の一文は――というか最後の一文だけは――原文からの引用をもって締めくくるべきだろう。たった一つの救いは、今付け加えなければならないことは何もないことくらいだろうか。
「おそらく最大の罪は、20世紀に特有の無関心という名の罪、すなわち、殺しもしなかったし嘘もつかなかった代わりに、賛美歌にいう『彼らが主を十字架につけたとき』、現実を直視することを拒否したあの学識ある生化学者による罪のほうだったと考えるに至っている」『傍観者の時代』