#047 [対談]学びの達人ドラッカー(その3)

(承前)

 

大工さんの側の知識

 

井坂 ドラッカーはものすごくラディカルな教育観をもっていました。あまり知られていませんが。

というのも、ドラッカー自身、ウィーンのギムナジウムで教育を受けたわけですが、まずもっていい思い出がないわけですね。これがドラッカーだけなら、本人に問題があるということになるのでしょう。けれども、世紀末から20世紀初めのギムナジウムに学んだ人たちで、私の親しい友人であるシュテファン・ツヴァイクさんやヘルマン・ヘッセさんに聞いても、「まずもってろくなところじゃなかったよ」と口をそろえるわけです。

ツヴァイクさんなどは、ギムナジウム時代を「ガレー船をこいだ時代」とおしゃれな表現をしてくれています(ガレー船がどんなものかを知りたければ、映画『ベン・ハー』をおすすめします!)。

ドラッカーもどこかで書いているんですが、学校が教育する機関と認めないというのですね。むしろ、イデオロギーが幅を利かせていた時代では、学校は精神の調教機関であって、「通いの刑務所」みたいなところたらざるをえないんです。だって、「教えること」しかないんだから。「学ぶこと」はないんだから。

『断絶の時代』なんかでもいってますけど、知識のもつ意味が変わったら、当たり前だけど学校のありかたは根本的に変わらなければおかしいのです。だって、学び方なんて人によって全然違うのですから。そもそも「学び方が違う」ことさえ教育する側は知らなかった。いや、知りたくなかった。

ガレー船の時代

 

たとえば、私は学びについては極端な偏食です。人から学ぶことが苦手です。教室で人に教えてもらっても、何も学べません。だから、塾などにいってもまったく効果がありませんでしたから、すぐにやめてしまいました。けれども、一人で本を読んでいるときには、ものすごく学びの効率がいいです。

受験なんかでは本に全部書いてあるのに、なんで塾にいって、教わらなくてはならないのか理由がわかりませんでしたね。根本的に独学派なので、今でも変わりません。

大学の教職課程なんかでも、教授法については1ダースくらいの授業がそろっていますけれど、「学び方」なんていう授業や学問はまだまだ未発達です。五島さんの言う、「大工さんの側の知識」が致命的に欠落しています。

ならば、学びというのは知識社会に表れた広大な機会の海原であることがわかります。私なら、ドラッカーにならって、「精神の暗黒大陸」と呼びますけどね。

五島 ギムナジウム時代って、そんな時代だったんですね。

『ベン・ハー』のガレー船のシーンは特に印象に残っています。あの中で、いい思い出をつくるのは、どうすればいいのかすら検討もつきません。

ドラッカーさんの元で学ばれた、ウィリアム・A・コーエンさんが実際のドラッカーさんの授業風景や授業外の様子を本で書かれてますが、その姿を知ってから、私も学生さんや参加者さん、お客さんとよりお話することを意識するようになりました。何かを伝えるには、一緒にやっていくには、やっぱり会話しかないんですよね。立場や背景が違うからこそ、よりたくさん会話が必要になると思っています。

学び方としては、私は逆に人から、そして実際にやってみることから学ぶことが多いなぁと思います。本も読みますが、人からの言葉の方が断然入ってくる。だから、同じ本を読むでも、対談や話口調になってる方が入りやすかったりもします。塾はどんなところだろうと、ちょこっと行ってみたことはありますが、すぐ辞めました。

でも、習い事はいろいろしてました。多分、習い事の場では、自分の好きにしていいという安心感、しかも分からなかったら、すぐ聞いたりお手本になる人がいるから、そこから比較して学ぶこともできるっていうのもあったからなのかなと思います。このように井坂さんと私でも、学び方には大きな違いがある。クラス30人いたら、もっともっと違って当然ですよね。

何に出会って、何を感じたか

 

実はですね、まだほとんど誰にも言ってないのですが、ここでこっそり言うと(笑)、来月からまた大学に行こうと思っています。これまで会社をよくするには、みんなが機嫌よく働くためにはと、いろいろやってきましたが、どうしてもうまくいきにくい部分がある。それは自己肯定感だったり思い込み、無意識に関わる部分なんですね。

で、今の段階で感じているそこの差が生まれる根本を考えていくと、どんな環境にいて、どんなこと感じてるかなんです。それは小さい頃からの家庭や学校での環境だったり、受けてきた躾や広い意味での教育。見たもの聞いたもの経験したこととかです。

つまり「何に出会って、何を感じたか」です。幼少期は当たり前ですが、世界が狭い。初めて出会うものが多いこそ、そこでの影響力は絶大で、それが基準になるから、テキトーやなんとなくじゃダメだと思いました。やっぱりベースが肝心なんだと思ってます。

そんなこともあり、家政学と教職課程をとる予定です。現在、複数仕事をしている中で、教育に関わる仕事にも携わらせていただいていますし、企業のことにも関わっています。そして、普段の生活のこともある。今はそれぞれがバラバラになってしまっているように感じているので、それらを、それぞれの角度から見た上で、次になにかできることがあればと思っています。

知のギムナスト

 

井坂 学び続けてるんですね。素敵ですね。無意識という言葉を使われましたけど、本当の教育って無意識の教育なんだろうなと思います。

昔は--といってもギリシア時代なんかは--体育が無意識の教育だったんです。体育教師が教師の中の教師といわれていたんですね。彼らは「ギムナスト」と呼ばれていて、ギムナジウムとか、ジムの語源になっています。

つまり体を制御するすべを学ぶことが、無意識の教育に直結すると考えられていたということなのでしょう。似た考えは東洋にもあって、たとえば、日本にも柔道とか剣道が体技を通して精神を鍛錬すると一般に受け止められています。

ある面では、ドラッカーのいうフィードバックは、ギムナストの知識版なのではないかと思うことがあります。

フィードバックというのは、繰り返しです。毎日繰り返すことです。繰り返しのなかで、はじめて自分の無意識の力が表れてくるという考え方です。

強みというのも端的に言えば、無意識の中に眠っている力のことなのですね。無意識にあるから自分ではなかなか気づくことができないのです。

やっぱり人から指摘されたり、フィードバックしたりしなければ認識することができないのだと思います。

再生産能力

 

それともう一つ、さっきの「プレグナント」(妊娠)とも関係するけれど、生物のもっている力でとてもだいじなもの。最近よく考えることです。

再生産能力というのがあります。

日々人は自分自身を再生産しているわけですね。同時に社会もまた自分自身を再生産しているわけです。自然も同じです。生き物の本質は自己を再生産することにあると思います。再生産能力を失ったときに、生物は死を迎えます。

まさにこの再生産能力こそが無意識の力であり、強みなのだと思います。でも、考えてみると再生産するってすごいことですよ。

ときどき、電車に乗っていて、「こんな感じのおじいさん、学生のころもみたことあるなあ」と思うことがあります。あるいは駄菓子屋のおばあさんや、床屋のおじさんがいつの時代も判でついたように同じだったり(笑)。社会はきっちりと再生産しているんです(もちろん自分自身も!)。

教育のだいじなところは、社会の核の部分を再生産していることではないかと思うのですね。

ドラッカーはそのあたりをよくわかっていて、無意識の中に眠る再生産の要みたいなものは変えてはいけないと、むしろありのままに、健康的に、自然から与えられた再生産能力を利用できるように考えなければならないと思ったのだと思います。

強みは強みを再生産するんですね、きっと。

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