#069 人間ドラッカー博士の思い出(その3) 

斉藤勝義(清流出版(株)出版部顧問)

 

日本食通のドラッカー博士

ドラッカー博士は、刺身、しゃぶしゃぶ、日本酒の熱燗が好きだった。1934年6月にロンドンで日本の絵画に初めて出会い、魅了され、仏像や建築物あるいは日本の伝統的な文化をこよなく愛したドラッカー博士は日本食通でもあった。言い換えれば食通であったからこそにっぽんの文化、日本人の気質なども深く、広く理解でき、好きになったのだとも言えると思う。

1970年代の訪日の時、ドリス夫人の用事でドラッカー博士が一人で手荷物を抱えて来日されたことがあった。東京での講演を無事に終えてホテルオークラに宿泊された際、私と次の予定を話し合い帰宅しようとしたときに、ドラッカー博士が突然、私に「Mr. Saito, when are you going to retire?(いつ定年を迎えるのか?)」と聞いてきた。

私は、「20年先になるだろう、I am in my early forties at present.(私は現在40歳代の初期です)」と言い、正確な年齢を言わなかった。ドラッカー博士は、私の年齢を羨ましそうに「I am not young enough now. I am in my sixties. I am a mandatory retiree in Japan.(私は若くはありません。私は60歳代で、日本では既に退職者です)」と言い、年齢を言わなかった。お互いに年齢の探り合いをしたような感じになった。ドラッカー博士は年齢に比べて、日本人よりも若くエネルギッシュ腕未来を見つめて生きておられるように改めて感じた。

関西の宿泊は、ドラッカー博士の希望と関西生産性本部の事務局の紹介で京都のこじんまりとした静かで風情のある日本旅館に一泊することができた。ドラッカー博士も「This is what I have wanted!(これは私が望んでいたことだ)」とつぶやいた。

旅館に到着したら玄関で着物姿の女将さんが日本語で「おいでやす」と耳触りの良い京都弁で話しかけ出迎えてくれた。ドラッカー博士も「ハイ、オネガイシマス」などと対応していた。その時私は、ドラッカー博士は日本語がわかっている、通訳などが一緒の時はあえて日本語は使わない様に心掛けているのではないかと思った。

夕食の時にドラッカー博士は、「サケ、ホット、フタツ」「サシミ」「シャブシャブ」「ミソスープ」と次々と日本語で注文され、女将さんに「日本語お上手ね」と褒められた。酒は甘口か辛口かするかと問われたとき、私は辛口という英語を知らなかったので、辛口をお願いしますと自分で勝手に決めてドラッカー博士には伝えなかった。その時の恥ずかしさと罪悪感を今でも思い出すことがある。辛口は“Dry”で甘口は“Light”であることをこれがきっかけで学んだこともよく記憶している。

義理人情の人

翌朝の朝食の席で、私とドラッカー博士が一緒になった時に「Did you have a good night?(良い夜を過ごされましたか?)」と挨拶したら、「グリーンタタミ・ルームに生け花が置いてあり、墨絵の掛け軸が在り、フトンが敷かれており、I had a good sleep like a log(私は丸太の様に良く寝た)ので、今朝は元気一杯で気分も爽快、今日のセミナーは成功間違いなし」と言い、「ミソスープ、もう一つお願いします」とお代わりを申し出た。その日のドラッカー博士の特別講演は、満席で素晴らしい講演であった。

講演に先立ちドラッカー博士は、昨夜の京都の日本旅館の客のもてなしの良さに感激したことを基にして、日本文か、風俗習慣の優れた点を話題にされた。聴講者も地元の文化を最初に賞賛され喜んだ。講演の休憩時間の間にもドラッカー博士は著書を買って下さった方々の本にサインをしたり、名刺交換を自ら進んでやってくれた。勿論講演が終わった後も著書へのサインは続けられた。

ドラッカー博士は、このように読者に対しては積極的にサービスをし、また出版社にも本の促進販売には気を配ってくれた。私へも宿泊のホテルへドラッカー博士を送り届けた帰り際に、色紙に一言添えて、自筆のサインをしてくれた。

ドラッカー博士は、気配り、思いやり、どんな些細な行為に対しても感謝の意を示すことに長けておられた。義理人情のわかる人であった。

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