#090 “Oh Peter, Oh Kazuo” 今も聞こえるあの懐かしい声(2)

野田一夫
インタビュアー/藤島秀記

当時の経営学

野田 だから僕はなおさら、元気な生身の経営者に会いたかったが、学生ではなかなか会えないんだな。経営者は忙しいから、学生に会う時間がないんだよね。東大から立教大学へ行くころには30歳くらいで、すでに助教授になっていた。そのころになると、何となくビジネスというものが経済雑誌でも大きなウェイトを持ち始めていました。東洋経済だとかエコノミストとかダイヤモンドといったプラグマティックな経済の雑誌が主流でした。いうなればアメリカ経営学ブームの走りだったというのがこの頃です。ところが東大の経済学部ですら経営を話せる先生はいなかった。一橋大とか神戸商大あたりにはいたのかもしれない。でもその先生たちも当時はまだあまり活躍はしてなかった。いまから思うと、僕はその経営学ブームにうまく乗れたと思うんです。

藤島 僕は慶応なんですが、当時、慶応で経営学というのを教わった覚えがないのです。もちろん経営学部もありませんでした。

野田 君は何年に入学?

藤島 昭和32年に僕は入学して、当時授業の中に「広告学」というのがありました。

野田 広告ね。面白いね。東大にはなかった。

藤島 あとは配給論っていう授業もありました。

野田 いまでいうマーケティングだね。商学というのがあって商業学との関わりだと思います。東大には商学部はなかったが、経済学部商学科はあったんです。ドイツに商業学があるからね。慶応も同じだと思いますが、経営学という名前が出てきたのはかなり後でしょう。

藤島 ですから日本における経営学、とくにアメリカ経営学の先兵になったのが野田先生だと思うんです。それもドラッカーから始まった。

野田 僕には欲求不満があったんです。やっぱりもっともっと経営者に会いたくてね。

藤島 野田先生の叔父さんは野田信夫さんですが、彼は日本で最初に「経営学」という名前を付けた本をダイヤモンドから出したんです。それが売れに売れて30版になったんです。だからその後、どうしても新しい本を出して欲しいということで、当時の野田信夫先生はだいぶんお歳を召されていたのですが、無理をいって新版を出してもらったんです。その新版のとき僕がダイヤモンドで編集担当をしたのです。

野田 そうだったの。親父は長男で理系の物理だったんだけど、その次男が野田信夫だね。よく僕と間違えられていて、彼が死んだときに「えっ、野田先生ですか?」「それは叔父ですよ」っていうと、みんなびっくりしていましたよ。彼は三菱重工にいたから経営のことがよくわかっていた。あれは本当の経営の本ですよ。大企業中心の本ですがね。

尾高邦雄さんとマックス・ウェーバー

藤島 野田先生はなぜ社会学を学ぶようになったのですか。

野田 僕が社会学に進むようになったのは尾高邦雄さんがいたからです。お兄さんが法学部長、弟は尾高尚忠、要するにコンサートマスターだよね。尾高邦雄さんは、東大の中でも服装や履いている靴からしてみんなと違うんだね。僕にまともな社会学を教えてくれたのは彼だけでした。

僕を東大の特別研究生に残したのも、社会学に行くことになったのも、尾高さんによるものなんです。さらに先輩の一人が「野田ちゃん、これ読めよ」と渡してくれたのがマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だった。これも社会学に進む遠因になったでしょうね。マルクスを読んでいると非常に独断的だと思うんだが、マックス・ウェーバーはすごく説得力があったね。

なにゆえにある時期に、あるヨーロッパの、例えばドイツとフランスの一部に資本の蓄積が進んだのか? 結局プロテスタンティズムはカトリックの堕落から生まれたんだ。聖書を読むとまず「勤勉に働け」とあり、次に「浪費をするな」と書いてある。それが近世になってくると、働いた人はその分だけ収入が増える。それでしかも勤勉に働けということだから、そこに余剰ができる。その余剰が一人ではなくて、その地域にいる事業家全部を含めると、大きな資本の蓄積になってくる。この論理を数字を使わずに説明していてもよく分かる。それで僕はウェーバーの虜になったんだな。だから東大では迷わず社会学科にすぐに入ってしまった。

藤島 尾高先生には私も編集者として随分お世話になりました。しかしこわい先生でしたね。

野田 尾高さんがいたから唯一、話し合えた。尾高さんは「おまえは面白い」って言ってくれた。

藤島 清水幾太郎さんもいました?

野田 清水幾太郎さんは講師、あの人の話は面白かったけど当時専任じゃなかった。そのほかは「農村の家族制度」だとか、そういう世の中の核心から離れたことばかり当時の社会学はやっていた。そういうことでマックス・ウェーバーに憧れて社会学に入ったんだけど、およそマックス・ウェーバーみたいな先生はいなかった。結局僕は先生にタテついていたんだな。講義では一番前に座って、質問責めしていたので疎んぜられてしまいました。ただ、その中で尾高さんだけは、僕のことを買ってくれた。「お前だけは大学に残れ」と言ってくれたんです。「私は大学教授には向いていないし、とくに文科系には向いていません」と言ったんだが、「特研生ならお金がもらえるぞ」と先生は言うんです。今で言えば月に10何万円くらいかと思う。「お金がもらえるとは有り難い」と思って残ったんだよ。

そのために特別研究室に残ったけど1年半くらい経って、もう胃が痛くなってしまった。研究室はあまりにも暗かった。研究室には7、8人仲間がいたけれど、全員が競争相手なんだね。よほど運のいいやつは東大の助教授で残れるけど、残りは大先生が地方大学に空きを見つけてまわしてくれるのを待つんだよ。だから僕は結果的にすぐ研究室をやめようと思った。しかし「今やめると2年近くのお金を返さないといけない」といわれて、しょうがないから、あと1年ちょっと我慢することにした。

そんなことで尾高さんが「立教大学に産業関係学科というのができるから推薦してやろう」ということで立教に行くことになった。しかし僕がやりたかったのは経営者に会って生きた経営の勉強がしたかった。立教大学の助教授のままでは、松下幸之助さんに会いたいといっても、秘書課はそんなに簡単には会わせてくれない。だけど例えば雑誌のエコノミストとして松下さんに「こういうテーマで話を聞きたい」というと、広報は時間を取ってくれるんだよ。そのようなやり方で僕はたくさんの経営者に会ってきた。

僕が東大の先生から教わった経営論なんて何の役にもたたなかった。僕はある経済誌に経営者の話を8か月間、毎週書いていた。そのためには「経営者の話を聞かないといけない」というのが僕の考えだった。日本ではそのころから経営学の本が出始めていました。しかし経営の経験がない人が経営のことを書いてどうなるの、と思っていました。今考えると叔父、野田信夫の本が唯一読むに値したと思う。あのころ活躍したのは坂本二郎(一橋大)、林周二(東大)、鎌倉昇(京大)など、みんな仲が良かった。ちょうど時代は経営学ブームを迎え、僕を始め皆が経営ジャンルで活躍しはじめました。

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