#089 “Oh Peter, Oh Kazuo” 今も聞こえるあの懐かしい声(1)

野田一夫
インタビュアー/藤島秀記

ドラッカーとの出会い

藤島 今日は野田先生に懐かしいお話をいろいろ聞くことになると思います。そもそも日本でいちばん初めにドラッカーに会ったのは、おそらくあなただと僕は思っています。

野田 ドラッカーなんていう名前を、まだ世の中で誰も知らないときに、なぜ僕が彼にひきつけられたかということで、これからお話しましょう。たぶんアメリカでも最近だと「ハーバード・ビジネス・レビュー」を読んでも、あまりドラッカーは出てこなくなった。いまでもドラッカーの著作を一番多く読んでいる国は日本じゃないかな?

現在もドラッカー関係の本はダイヤモンド社からもよく出しているね。でも本は出るけど、日本人は本当の意味でドラッカーの影響を受けているのだろうか、といまでも疑問に思っています。どうも日本人の理解は、ドラッカーの考えるところと、本質的に違うような気がする。まず僕がドラッカーと最初に会ったのは、僕の訳した『現代の経営』が出版された1956年以降だった。

藤島 邦訳は1956年に現代経営研究会の訳で出ていますよね。『現代の経営』を翻訳された当時の経緯などをお聞かせください。

野田 『The Practice of Management』(邦訳書『現代の経営』の原書名)の中で、ドラッカーは「経営者は企業に活力を与える存在だ」といっている。日本の経営学の本には「経営者」って言い方は出てこない。またマネジメントという概念が、企業に活力を与えることを当時の日本では知られていなかった。例えば「仕入れた材料は商品にはならない。経営者自身がマネジメントにより商品価値に転換した結果である」と非常にアトラクティブに書かれている。だから『The Practice of Management』は2,3週間で読んでしまった。それで「この本を絶対に日本で出そう」と思ったのです。こういう本が日本にないからだめなんだとも。

一人で訳すには文章が長いから、英語の出来そうな先輩や後輩を4,5人集めて、全体の文章の統一を僕がやることになった。そこで現代経営研究会という名前の研究会を結成した。まず入ってきたのが川村欣也君だった。彼はロンドン育ちで英語がすごくできた。その彼がメンバーを5、6人探してきて翻訳に取り組んだ。

その翻訳への取り組み方はすごかったよ。問題はどこから出版するかだった。そのころ僕はダイヤモンド社から『日本の重役』という本を出していた。『The Practice of Management』もダイヤモンド社に持っていったけど、「ピーター・ドラッカーという人の名前は聞いたことがありません」ということで断られてしまった。実際、そのころはどこの出版社も、あまり経営書の翻訳は出していなかった。しょうがないからいろんなところと相談した結果、自由国民社が引き受けてくれることになったのです。

その次にドラッカー本人に手紙を出して「『The Practice of Management』を『経営の実務』などと邦訳書名にしたら売れないと思うので、タイトルに関しては僕に任せてくれ」と伝えたら、すぐに「オーケー」の返事が来ました。

藤島 長らく『現代の経営』というタイトルはどうやって付けたのかと思っていました。これでやっと分かりました。

日本の敗戦と学生時代

野田 ですから、非常に早い時期にドラッカーを読んだのですよ。なぜドラッカーを読んだかというと話は長くなりますから、まず僕の経歴からお話をしましょう。

私はもともと理系志望で親父が航空機の技術者として草分け的存在だったので、それで「俺もぜったい親父の跡を継いで親父を超えてやろう」と思っていた。だから東大の工学部航空学科に進学しようとしました。

ところが東大入学直前に戦争が終わり、新聞には毎週GHQの占領政策の記事が出るんだよ。そこには「日本の復興政策つまり経済水準は、戦時中の日本が侵略したアジアの国々の水準を超えない程度に許す」とあった。考えてみればひどいもんだけど、そんなことで日本の航空機製造は当時禁止になり、したがって東京大学の航空学科も廃止になってしまった。

しかし航空学科以外の工学部を卒業したとしても、終戦後の日本は都市も工場も戦火で破壊され、仮に工場に残された機械があっても、東南アジア諸国に対する賠償が優先で日本の再建にはとても回らなかった。だから工学部を出ても仕事がないというのがこのころの常識だった。国の方針も旧制高校で理系から文系に1年以内だったら自由に変わってもいいということになった。当時、東大に小宮隆太郎君という後の経済学者がいて、彼も理系から文系に変わった一人で僕の1年下だった。当時理系から文系への転向組というのはいっぱいいたが、文系から理系は一人もいなかった。だから理系から文系への転向組は、戦後かなり活躍したと思う。

僕自身は文系に変わった当時、18,9歳の青年で、将来何をするか卒業をするまでわからなかった。だから当時の青年の多くは五里霧中の状態にあった。唯一元気な人たちがいたとすれば、それはベンチャーの経営者だった。伝統的な大企業はみんな占領されパージとか財閥解体とかで活動が極端に制限されていた。企業活動が本格的になったのは朝鮮動乱以後だと思う。当時、日本で唯一元気があったのはアメ横のおっさんたちだった。僕はとにかく元気なものが好きだった。本郷から坂を降りると上野。上野のアメ横によく行ったけど物を買うより、元気な雰囲気の中にいたかった。商売人というか経営というものを初めてそこに見たんだ。ああいう元気なおっさんたちが僕に大きな影響を与えてくれたんだ。

そのころの学問は経営学なんてものはなく、東大には当時経済学部商学科というのがあった。商学科には「経営概説」という講義があり、その授業で学ぶと商売をやる時に役立つと期待したのだが、実際に聞いてみると全くつまらないものだった。要するにその経営概説を担当する先生の顔つきも、言っていることも、「ああ、この人はビジネスを全く分かってないな」と思った。人間でいえば人間の話をするのに骸骨を持ち出してきて、人間の魂もなんにもなく、ただ骸骨で説明するような非常にばかばかしいものだった。だからその講義は10分で出てしまった。

 

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