#080 なぜ、ふたたびドラッカーなのか?(5)

西條剛央(早稲田大学大学院(MBA)客員准教授)
井坂康志(本サイト運営者)


■普遍的了解性の強度という観点からドラッカーを吟味する

西條 これまで社会科学というのは世の中を解釈はしてきたのですが、普遍性の確認や十分な実践はできてこなかったと思うのですね。ドラッカーについても、ドラッカーの著作の解釈は行われてきたと思うのですが、実践のための普遍性の吟味という点では十分でなかったように思います。その点本質行動学はドラッカーの著作についてもどれほど原理的で、普遍性があるかという観点から批判的に吟味して、普遍的な原理やメタ理論として定式化したり、普遍性のあるマネジメントツールを作ることで研究を実践に直結させることを可能にします。

哲学的吟味というのは決して難しいことではなく、ふだん私たちが本を読みながら行っていることの延長なのです。「いや違うんじゃないか」とか「そのとおりだ」などというふうに、内面で対話をしている。それを「これはいつの時代、状況でも当てはまりそうか」「例外なくいえそうか」と徹底的に普遍性を吟味する。

このことを通常の経営学の理論で行うと、いくらでも例外が考えられるため普遍性はないとわかるのですが、ドラッカーの書物で行うと、普遍的に了解できる強度がとても高いことに気づかされます。それがドラッカーの書物をある面で融通無碍に見せてしまってもいるのです。私は驚いたことがあるのですが、クレアモント大学院大学の先生でさえ、「ドラッカーは何でもありだから」といったコメントをしていたのを聞いたことがあります。

しかし、本質というのは聞いてしまうとなんということはない、それはそうだろうと了解してしまう了解の強度がある。それこそが本質の本質たるゆえんなのですね。ゆえに、知ってしまった後には、何でもありではないかと感じる学者もいるわけです。しかし、普遍的に了解される強度を備えた理路を残すということは歴史に残る偉業であって、ドラッカー思考が徹底的に考え抜かれていることの表れなのです。

論理の質とは追認可能性の高さに表れます。たとえば、「1+1=2」。一度聞いてしまうと、当たり前になってしまう。いわばこれこそが普遍的に了解できる哲学的吟味の強度なのです。同時に、この普遍性と汎用性は比例する。普遍的であればあるほどどこででも洞察に使えるようになるのです。実際に、ドラッカーもそうですし、私のつくった本質行動学もそうなのですが、活用している人の範囲の広さというのが顕著な特徴としてあるのはそのためです。

学校、医療、ボランティア、もちろん企業などなど多様な適用可能性をもっています。これはまさしく普遍的な了解の強度の高さを裏付けるものです。その観点からドラッカーのテクストを読むと、これは当該テーマの普遍的なメタ理論と言えるほどの徹底した原理になりうるなというところと、経験を踏まえた原則論として書いているところもあれば、「社会に害を為してはならない」といった倫理的な言明もあります。原理性の深度、つまり普遍了解性の強度という観点から、ドラッカーのテクストを分類していったり、原理を抽出してバージョンアップしていくこともできるようになるのです。

単にドラッカーの言説を受け取るだけではなく、現実で起こっていることを砥石にして本質論的に研ぎ澄ませていく。第一に、各人が批判的に吟味し、確かめていくことができるという意味での「検証可能性」、第二によりよいものに更新していくことができる「更新可能性」、これが開かれた言語ゲームとしての学問が成立する条件なのです。置かれた状況や文化によって展開のしかたに果てはありません。アクチュアルな現代版に進化させることもできる。それらを促進するための条件を備えていることが開かれた学問には必要なのです。

一方で、現在数量化に偏重している経営学はどうなっているか― 。逆説的ですが、実質的な検証可能性がなくなっているのが現状です。なぜか。いくらビッグデータなどで高度な統計を用いても、その基となっているローデータが公開されていない。ならば誰にもアクセスできない。高度な統計学的な知識を持っていたとしても、アクセスできない以上、批判的吟味さえままならない。

構図はリーマン・ショックを起こしたファイナンス理論と同じです。誰も見られない、検討しようのないデータをもとに権威づけがはかられているのです。最悪の結果を招かないほうがおかしいのではないでしょうか。たとえば、科学的な研究結果を根拠に意志決定したどこかのグローバル企業が、大失敗して結果として社会を毀損するということがいつでも起こりえます。

そうならないためにも、本質を問うために統計学があり質的研究など多様なアプローチがあり、その逆ではないということを伝えていきたい。そのような日本発の本質を機軸とした学問体系を世界に広めていきたいと考えています。おそらくそれが私の第二の人生のミッションになると考えています。

■本質の学問のさらなる展開

-- そのなかで、ドラッカー学会のような活動と今後より交差して相互に発展していく要素があるとしたら、どのようなところでしょうか。

西條 今まさにコラボレートしている感じがあるのですね。私も「いいチームを作りましょう」や「エッセンシャル・マネジメント・スクール」などの活動をしているわけですが、所属している方々の関心が似ているのです。ドラッカーに関心がある人とは自然なかたちで行動をともにできるところがあります。ですから、お互いに相乗効果をもつようになる。まさにドラッカーのいうポスト資本主義社会というかあるいはネクスト・ソサエティというか、彼が見据えていた境地が現出していると感じます。

自らの強みを使ってよりいい社会にするためにできることをしていく、それが当たり前の社会になりつつあるように感じます。ドラッカーの本質追究の関心を私たちも自然にもてる時代になってきているということでしょう。ですので、ごく自然な形でドラッカーの発言が読み返され、活用される時代にすでになっていると思います。

私が「エッセンシャル・マネジメント・スクール」のコンセプトを思いついたとき、思ったことです。通常でしたら特定の領域、分野、個々のテーマに限定して考えなければならない。でも、私のしたいのはそのようなことではなく、あらゆることに役立つ本質を探究したかったのです。ただし、タイトルを考えたときに、「本質行動学」というとどうしても固い印象があり、もっと一般の人に開かれている名称であったほうがよいと思っていました。そのときに、「本質×マネジメント」というコンセプトが頭に浮かんだのです。これなら、自分の関心の本質そのままで、どんなものにも当てはまります。

-- ドラッカーが亡くなって12年経つわけですね。哲学・思想の世界とはいくぶん違うのでしょうが、経営や経済の世界は状況が時々刻々変わっていきますから、陳腐化が著しいのですね。ノーベル経済学賞を得た人、たとえばフリードマンの名前は、今ではせいぜい関連書くらいでしか見られません。それに対してドラッカーは今なお自然な形で人を結びつけている。単に発言しただけでなく、発言を通して、後の世の多様な人たちを、ごく自然に結び合わせてくれている。エッセンシャルなことのように思えます。

西條 かつて私は誰になりたいかと訊かれたとき、僭越ながら「ドラッカーのようになりたい」と答えたことがあります。そうありたいと願っています。本質やそれに基づく原理というのは外在的にあるものではない。批判的に吟味して考えるほどに、それについてはこう考えるしかないと思える思想の強度や了解の強度の話なのです。ドラッカーはそこを目指して書いていた。だからその理路は時代を超えるわけです。

かりに事例は古くなったとしても、普遍洞察性を備えた理路は、後の世でもアクチュアルな効力を発揮してしまうのです。ドラッカーが残してくれた叡智を、さらに学問として鍛え上げて、社会に役立てていくことが、本質からブレない「いい社会」を子ども達に渡していくことにつながっていくと思っています。そのために「エッセンシャル・マネジメント・スクール」を中心に、原理性の深度を問うという観点から、新たな研究のパラダイムを打ち立てて、それを実践できる研究者を養成していけたらと考えています。ドラッカーの著作に精通しているドラッカリアンは、すでにそのための教養を備えている方々ですので、ドラッカー学会とはぜひ今後とも連携していけたらと思っています。

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