#076 なぜ、ふたたびドラッカーなのか?(1)

西條剛央(早稲田大学大学院(MBA)客員准教授)
井坂康志(本サイト運営者)

本質をとらえようとする学問

--本日は「エッセンシャル・マネジメントとしてのドラッカー思想の再生」という野心的なテーマでお話を伺います。
ドラッカーの世界的な研究者である上田惇生先生も、ドラッカーの思想と実践を現代に体現している方として西條先生に言及されていたのを思い出します。まずは、西條先生の学問的な視座についてお話を伺いたいと思っているのですが、構造構成主義というオリジナルの学問について、概要を説明いただいてもよろしいでしょうか。

西條 構造構成主義というと、うっかり頭をぶつけたら血が出そうなくらいに固い名前ですね。けれども、言わんとすることはシンプルです。「本質をとらえようとする学問」と考えていただければよいかと思います。

私は大学院の頃、人間科学研究科で心理学を研究していました。心理学と一口でいっても、実に多くの「心理学」があるわけです。人間科学も同様で、文化人類学から脳科学までそこには含まれているわけですが、なかには対立し合っている学問も多い。そのときに思ったのは、「なぜ学問の中で対立しなければならないのか」という素朴な疑問でした。

そのことを考えていくうちに、思い当たることがありました。それらは、いずれも科学に価値を置きながらも科学の本質をまったく考えていなかったり、研究方法についてもその本質をまったくとらえられてないのだということに気づきました。いわば、誰もが了解できるような普遍的な共通の基盤が欠落しているため、量的研究、質的研究といった研究手法一つとっても、共通基盤がないものですから、自分が学んだものが正しいと素朴に思い込んでしまっている。学問を考える上での死角だと思いました。普遍的な学問の基盤を整備するということには、誰もきちんと手をつけていなかった。

そのような背景があって、本質論を追求する学問が必要と感じて、ないならば自分でつくってしまおうと考えて体系化したのが「構造構成主義」です。

ドラッカーとの出会い

--そのなかで、2016年11月のドラッカー学会年報(『文明とマネジメント』)に野心的な論文を二本も掲載されています。あのレベルの論文が複数本同じ号に掲載されるのは学会にとってもかけがえのない貢献であるわけですが、先生の学問的な視座とドラッカーがどのように交差するのかについて教えてください。

西條 実は、大学院で心理学の研究をしていたときには、まったく分野も違っていたということもあってドラッカーは名前も知りませんでした。その後、ご縁があって早稲田のMBAで教鞭を執ることになった。私の専門の一つに質的研究法、すなわち数量化しない研究方法を構造構成主義をバックボーンとして体系化していたのですが、最初はそれによって早稲田のMBAに採用されたのです。そのため経営学は門外漢でしたが、入ってみるとやはりドラッカーの名をよく耳にするわけです。

2009年のあたりでしたから、折しも『もしドラ』がベストセラーになっていました。何となく気になって手にとってみたのが始まりでした。以来ドラッカーの著作は一通り買いそろえて、読むようになったわけです。

最初は、非常に驚きました。私はそれまで、現象学のフッサールや存在論のハイデガー、一般記号学のソシュール、構造存在論のロムバッハなどの普遍的な本質追究を行った哲学者の理路、いわば各哲学領域の最高到達点を組み合わせて、構造構成主義を体系化したわけですが、そんな私から見て、ドラッカーは歴史に名を残した大哲学者たちに比類する本質をとらえた学問を独自に展開していたためです。

しかも、原理的で普遍性があることをマネジメントの実践に即してごく当たり前のように言う。この人はすごいと思いました。

学問の揺り戻し

--先生の論文を拝見しますと、経営学だけではなく、社会科学全般にかかったバイアスの埃を上手に払いながら論を展開しているように見えます。とても先鋭的な問題意識を提出されているように思うのですが、そのあたりは自覚的に行ったことと考えてよろしいでしょうか。

西條 はい、やはりドラッカーのような普遍的な論者をきちんと再評価しておくべきという問題意識はありましたね。それというのも、『文明とマネジメント』の論文でも書いたことですが、いわゆるアカデミックな「経営学」の側からはドラッカーを適切に評価できない、というより、評価するための尺度をもちあわせていないのです。

考えてみれば、経営学は若い学問であるわけです。私が研究してきた心理学よりもかなり歴史の浅い学問と言っていいと思います。心理学などは方法論に対する問題意識がかなり高いのですね。先ほど質的研究にふれましたが、このような研究方法の意義が再評価されているのは、それまでの数量分析に偏重した科学的実証主義への反省という視点があるからなのです。これは一つの学問的な揺り戻し現象でもあって、「ポストモダニズム」とも呼ばれます。ちなみに、この揺り戻しは社会科学のみでなく、人文科学など、あらゆる学問で起こった一つの流れです。

ところが―実に興味深いことに―僕がみたところ経営学ではこの反省の思想潮流が起きていない。なぜでしょうか。一つの理由としては、もともと経営学が事例研究に重きを置いてきたこともあって、揺り戻すだけの数量化への偏重が他の人文社会科学ほど進んでいなかったということがあると思います。またざっくりいえば、ポストモダンは価値の相対化と多様性を謳ったわけですが、やはり経営という現実と接点を持つ経営学で「絶対などない、みんな多様でいいんだ」と主張したところで、「そんなの当たり前だ」と響かなかったということもあると思います。こうした理由から、結果としてポストモダンが入り込む余地がなく、思想的に見るとほかの学問と一風変わった独自の知的領域に進化したふしがあります。

とはいえ昨今、菊澤研宗氏の『ビジネススクールでは教えてくれないドラッカー』(祥伝社)のように、ようやくにしてかつて心理学をはじめとする他の人文社会科学で起こったのと似た科学主義に対する反省が経営学で起こりつつある。それくらい、現在の経営学の世界でも極端な数量化が学問的評価を決するまでになっています。結論から言えば、私はこの流れを楽観していません。端的に言うと、公益を損なうリスクさえはらんでいるように感じられます。

このあたりが「ドラッカーなど誰も読んでいない」という経営学者の発言に通じると思います。ドラッカーをいくら研究しても学問的な業績にならない。数量的な要因に乏しいためです。というのも、私もいわゆる実証的な研究を行っていたからわかるのですが、学問の中には直接役に立たないものも少なからずあるのは確かなのですね。けれども、だからといって「学問は役に立たなくていいのだ」と開き直ったらおしまいのように思うのです。特に、とにかく受け入れられやすい統計を使った論文を量産して、業績を増やして、研究組織で出世さえすれば、あとは知ったことではないというのは、経営学者としての社会的責任を果たしていないように思えます。

人の生き方としては、そうした業績量産ゲームが楽しくてやっているのであればそれはその人の関心なのでどうこう言うつもりはありませんが、本来的に役に立つドラッカーの業績をその内実を吟味することなく、「ドラッカーなど読むに値しない」と印象づけることで、数量的な研究よりも格下のものと見せようとするのは、学者としてフェアではないですし、公益を害しかねない。そうした状況を打開する理路を、私は『文明とマネジメント』に掲載された論文で提示しました。

さらに私は学問の本質論に取り組んできた研究者として、「では科学とは何か」といった原則からつきつめていき、ドラッカーという固有名詞もいったん脇に置いて、「科学の条件は何か」という原論的な問いを立てたわけです。実は近代の学問というのは、人類史上、ごく最近生み出されたものであって、完成されたものというよりも、まだ歩み始めたばかりであって、あらゆる領域・分野のメタ理論、学問の本質論すら確立されていません。既存の学問を生かすためにも、様々な学問の本質論として、構造構成主義を体系化したのです。さらにそこから、ドラッカーのマネジメントや社会生態学的な視座を、「エッセンシャル・マネジメント」として学問的に再生させることができると考えたのです。

 

2017年5月13日「ネクスト・ソサエティ・フォーラム2017」早稲田大学井深大記念ホールにて

 

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