#078 なぜ、ふたたびドラッカーなのか?(3)
西條剛央(早稲田大学大学院(MBA)客員准教授)
井坂康志(本サイト運営者)
■ドラッカーの言う「強み」とは何か?
西條 全国のドラッカーの読書会を牽引されている佐藤等先生は、ドラッカーのいう「強み」とは「資質」のようなもので、広くいえばワークスタイルや価値観も入ってくるだろうとおっしゃっていました。
上田先生は「能力」と翻訳されていますが、マネジメント研究会の森岡謙仁先生は、ドラッカーは強みとは「capability」と書いていると指摘されていて、たしかに「能力」よりも広い意味として使われている感じもあるので、「資質」というのは言い得ているように思います。その一方で、次のように強みと価値観を別に論じている箇所もあります。
「強みと仕事の仕方が合わないことはあまりない。両者は密接な関係にある。ところが、強みと価値観が合わないことはめずらしくない。よくできること、とくによくできること、おそろしくよくできることが、自らの価値観に合わない。世の中に貢献しているとの実感がわかず、人生のすべて、あるいはその一部を割くに値しないと思えることがある。(中略)つまるところ、優先すべきは価値観のほうである。」
この文脈だと、「強み」は「能力」に近いニュアンスになります。つまり、僕の言葉でいえば、ここでは「強み」(能力)と「関心」の違いにフォーカスしていて、これらが違う場合には「関心」を優先すべきだと言っているんですね。
これは原理的にもまったく正しいと思っていて、そのことについて少し私の考えをお伝えしたいと思うのですが、私の学問には「関心相関性」という価値の原理があります。“人は関心に応じて価値を見出す”というものです。先に示したように、本の読み方ひとつとっても同じです。自分にとって関心のある言葉が目に入ってくる。
つまり、関心が価値認識の起点となっている。関心のあることには価値を見出して、行動するわけです。だから、関心のあること、価値を感じることをしていると、人間の認識行動の自然な成り行きに沿っているので人は疲れにくいのです。もちろん関心があることでも、ずっと長時間取り組んでいるうちにエネルギーが低下してくることもあります。いわゆる「飽きる」という状態ですね。
しかし元々関心が高いことであればすぐに回復します。逆に、関心のないことを無理にさせられるほど人を消耗させることはありません。すぐに眠くなりますし、無理にやっても成果はあがりにくい。意志力を著しく消耗します。関心と能力は違うけれど、関心がないことには価値を見いだせないから、能力があったとしてもがんばる気にならない。おそらく、だからこそ関心を優先しなければならないとドラッカーは指摘したのだと思います。これは上でみてきたように、原理的にみても正しいわけです。
一方で、佐藤等先生がおっしゃっているように、「強み」を「資質」として広く捉えたときには、関心(価値観)も資質に入れるのが妥当だと思われます。というのは、何かに関心をもてるとは、それ自体がものすごい才能だからです。なぜ関心があるのかは本人でさえわからない。しかし、それに関心があり、そのことに価値を見いだせるからずっと集中して愉しみながら取り組めてしまう。そうするとその能力も高くなってきてより大きな成果を挙げられるようになる。凄い強みです。
他方、あるタスクに対して能力が高いとよいフィードバック(手応え、成果)を得られることが多いので、それに関心を持つようになって、さらに大きな成果を挙げられるようになる。最強なのが関心も高く能力的にも適性がある場合で、結果として、ごく自然に成果を出せてしまう。そんなふうに強み発揮するいくつかのルートがあると考えるとわかりやすいと思います。
■コミュニケーションは聴き手によって成り立つ
-- 今の強みについてのお話を伺い、ドラッカーの言うコミュニケーションの考え方を想起しました。ドラッカーは、コミュニーションを成り立たせるのは、話し手ではなくて、聴き手だと言うのです。聴かれ、理解されることでコミュニケーションははじめて完結するというのです。これも一つの関心や価値と深い関わりのある考え方です。「大工と話すときは大工の言葉を使いなさい」というプラトンの対話篇の一文をドラッカーは引用して説明しています。
本当に事実だと思います。聴き手の期待や関心、価値観によって、まったく同じ言葉を聞いても、ある人にとっては何の意味もない定型文が、別の人には人生の啓示のように聞こえたりすることがありうるわけです。ある意味では、唯一の理解というものははじめからなくて、創造的に誤解しうる自由というのがコミュニケーションの基本としてドラッカーには考えられていたのだと思います。同じ考えはドラッカーの著作にも表れています。ドラッカーの発言は、余白がとても大きい。その余白に、自らの経験や関心や価値観を自由に書き込めるようになっています。これが科学的な実証主義の立場からすれば、余白というのは議論の不徹底さを表現するだけのもので、そこには本文よりも多い脚注で埋めなければならない場所になる。読者に「誤読の自由」を与えてくれないのですね。
上田惇生先生は、今一冊ドラッカーの本を読むとしたら『現代の経営』だと言います。『現代の経営』は余白の大きな本です。合理主義を重んずる学者からすれば、実に粗雑な本にしか見えないと思いますが、その余白の部分が読者の頭脳よりも体に働きかけてくるような、不思議な熱があるのです。自然に心がくるくると回転しはじめ、体が動き出して、強みを世のために使いたくなる。ある意味では、無意識の底にまでドラッカーの言葉はリーチしていって、強みを引っ張り上げてくれる作用があるのかもしれません。
西條 そんなときは、何となく感じていたことをはっきり言ってくれたという爽快感もあるかもしれませんね。私自身もよく感じるところです。しかも、それぞれの個人に働きかけてくれている。「あなたは自由なんだ。だから未来を自分で選ばなくてはならないんだ」と。
■問いは偶然生まれない
西條 最近、ドラッカーを読んでいて「問いは偶然生まれることはない」という気づきを得ました。たとえば『明日を支配するもの』に次のような記述があります。
「自らの果たすべき貢献を考えることは、知識の段階から行動の段階への起点となる。問題は、何に貢献したいと思うかではない。何に貢献せよと言われたかでもない。何に貢献すべきかである。このような問題が成立すること自体、人類にとっては初めてである。誰にとっても、貢献すべきことは決まっていた。農民や職人のように、仕事で決まっていた。家事使用人のように、ご主人の意向で決まっていた。しかもごく最近まで、ほとんどの人が、言われたことを行うだけの存在であることが当然とされていた」。
すごい指摘だと思いませんか。確かにそうなのですね。貢献の対象などそれまで答えの以前に、問いとして成立さえしていなかったのです。「自らの果たすべき貢献は何か」という問い自体が存在していなかった。なぜなら、何に貢献すべきかなどわかりきっていたからです。生まれたときに、決まり切っていたのです。
言い換えれば、そんな時代は強みなどほぼ意味をもたなかったのですね。強みを知っても意味がなかった。貢献の対象が決定しているわけですから、それを粛々と行う以外にない。また同書に次のような記述もあります。「誰でも自分の強みはわかっていると思う。たいていが間違いである。知っているのは、強みというよりも強みならざるものである。それでさえ間違いのことが多い。
何事かを成し遂げられるのは、強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない。もちろん、できないことによって何かを行うなど、とうていできない。」
これも当人は「強み」と思っているものが、こちらからみるとまったくそうじゃないよね、ということや、逆にそれは自然にできているから強みと思っていないかもしれないけどすごい強みだよ、ということがよくありますから、本当にそうだなあと思って、そういう人にはぜひここを読んでくださいと言いたくなるわけです(笑)。
そして、次のように続きます。「わずか数十年前までは、ほとんどの人にとって、自らの強みを知っても意味がなかった。生まれながらにして、仕事も職業も決まっていた。農民の子は農民となり、耕作ができなければ落伍するだけだった。職人の子は職人になるしかなかった。ところが今日では、選択の自由がある。したがって、自らが属するところがどこであるかを知るために、自らの強みを知ることが必要になっている。」
もちろん日本でも状況は変わらないわけです。たとえば、今でも東北の沿岸部では親子三代魚屋を営んでいるという家もあります。ちょっと前まで実質的に、職業選択の自由もなく、親が決めた人と結婚することも多かった。自分についての問いを必要としなかった。しかし、今は選択の自由がある。そのすばらしい時代がやってきた結果として、自らの強みを知ることが必要になっているのです。この選択の自由の現実が、貢献や強みという新しい課題をはっきりと示してくれたわけです。
これは心理的な制約からの自由でもあります。わかりやすい例を挙げれば、経済が一番だ、経済を発展させればさせるほどよいという思い込みを相対化して、自由になった人ほど人生の選択肢は多くなります。こうして様々な呪縛から解放されるほど、人間は自由を手に入れるわけですが、そうした先験的な制約がない分、自分の強みとは何か、本当にやりたいこと(関心)とは何かといった問いを立てることが必要になったわけです。
そしてこうした時代は始まったばかりなので、それぞれ現実とのフィードバックを受けながら、手探りで自分のライフスタイルを模索している時代に入ったのだと思います。
■本質行動学を推進する
-- 昨今、エッセンシャル・マネジメント・スクール(EMS)も立ち上げて運営しておられます。オンラインサロンですね。
西條 構造構成主義という原理に基づく実践の学として「本質行動学」を提唱しています。実はここでもドラッカー学会が関係しています。先にも述べたように、二本の論文を『文明とマネジメント』に投稿したわけです。この二本の論文を執筆するなかで、あることに気づきました。今となってはなぜそこに今まで気づかなかったのかと思うほどですが、「本質行動学」とは、英語で言えば、「Essential Management Science」だということがわかったのです。この語感にとてもしっくりくるものがありました。
本質行動学がドラッカー思考と高度の親近性があることはわかっていたのですが、この気づきから、まさしく双方とも、エッセンシャル・マネジメントという点では同じだということがわかったのです。以前からオンラインサロンの場をつくらないかとのお誘いはいただいておりましたが、どうもしっくりくるコンセプトがないことで踏み出せずにいたのですが、二本の論文を書きながら、自分のやりたいことが何なのかがくっきりと見えてきた気がします。
というのも、やはり学問とは熱心に取り組めば取り組むほどに細分化していくわけですね。結果として、本質を見失いがちになる。本質追究のための学問という発想が、近視眼に押し流されてしまう。ならば、本質を問い続ける独立した学問があっていいのではないか。
特に高等教育機関にそのような学問が一つあっていい。ならば、自分でつくってしまおうと。ドラッカーも何もないところからマネジメントや社会生態学をつくってきたわけですから。EMSは現在350名で、幸いなことに、ドラッカー学会の会員の方も多く学んでいただいています。私にとって、ライフワークになるだろうという予感がありますね。