#074 「ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画ー『マネジメントの父』が愛した日本の美」展について(2)

松尾知子(千葉市美術館学芸係長)

 

なぜ日本美術だったのか

なぜ日本美術だったのか、ドラッカーにとって、日本美術を見るということ、そしてそのコレクションはどのような意味があったのだろうか。収集活動は1960?70年代が最も充実し、日本で得た収入は日本で全部使ったという話があるだけでなく、実は一時は借金もしたほどだったらしい。室町水墨画では、雪村《月夜独釣図》をはじめとして著名な作品も早い段階で入手している。自身が求めるものは何かを探りつつも、それが入手できた時代でもあった。

ドラッカー・コレクションには、他には作例がほとんど見いだせない、つまりここでしかその人の作品を見ることができないという、逸伝の室町水墨画家の作品が何点も含まれる。例えば知有《翡翠図》や精庵《雪中雀図》など、捺された印章にその名が刻まれているものの、伝記の詳細はほとんど伝わらない。薄暗いような画面は今時の目には決して華やかには見えないが、しかし何か生命感をみなぎらせ、忘れがたい存在感を放っている。ドラッカー・コレクションはこうした作品群によって記憶されてきたのだ。来館者の感想には、知らない画家ばかりで教えられた、というものも多かった。

三度目の来日の折に店頭で見て衝撃を受けた禅画については、20世紀初頭のヨーロッパの表現派が目指していたものをそこにみて接近しやすかったと言っている。一方、コレクションの3分の1を占めることになる文人画には、初めは慎重に近づいた。「文人画と共にいれば、それだけ自分自身について学ぶことになる。これこそが正に文人画の威力である」という言葉も心に残る。神仏、歌仙、禅宗祖師といった聖なる超越的存在の人物像と括ることができる作品も多い。「名品展」ならば挙げづらい一点一点であったとしても、これらが特にコレクション後半になって集中して収集されるようになったことの意味は小さくなかろう。

展示はこのように、特徴的作品を抽出しつつコレクションの道程を示すものとなった。実際に作品を会場に並べ終えたとき、ことに前半部分にたたずんだとき、作品群とその空間がドラッカーその人を語りだしたように思えた。直前の借用時、サンフランシスコの倉庫で、コンディションチェックのため全作品を見ていたのだが、我ながら全く違って見えたのだ。絵を、特に山水画を眺めることの本来的な意味が思い起こされたようだった。

展示会場 千葉市美術館

ドラッカーの言葉と、資料展示の反響

ドラッカーが他の日本美術コレクターと違うのは、コレクションのほぼ全てが掛軸であり、常に身近に掛けて生活の一部とした、座右のもののみであるという内容もさることながら、彼が文筆家であり、コレクションや美術に関して語っているということ、さらには美術を通じて日本を考察し、あるいは日本美術への凝視を通じて思索を深めているということであろう。

ドラッカーの美術に関する著作を整理し、図録には未刊のもの全てを新たに収載したが、展示においても、ドラッカーの記述を交え、個々の作品解説にも加えるなど、コレクションの思想が浮かび上がることを意図した。結果として、これに起因する反応が目に見えて大きくなっていった。古美術の展覧会としては珍しく、来館者に現役世代の男性も多く、熱心にメモをとる方の姿も目立った。図録は予想以上の購買率となって巡回3館用であった初版を会期中に完売した。

展覧会の準備では、作品に対する手当て以上に、ドラッカーとコレクションに関して具体的に何が提示できるかについて苦慮していた。クレアモントのドラッカー・インスティテュートには種々の便宜をはかっていただき、その在り方は大変参考になった。借用した数少ない日本関係の資料に、日本大学でのスピーチ原稿があったのだが、のちにドラッカー家からご提供いただいた富士登山の時の写真と山頂でのエピソードが、同じ1962年のことであり、内容が偶然つながった時には資料が立体的になったようでうれしかった。

しかし会期も目前となって弾みがついたのは、東京文化財研究所に保管される美術史家・田中一松(1895-1983)の膨大な資料のなかに、ドラッカー関係の一群が見出されたことである。1960?70年代(ドラッカーは50?60歳代)の収集に関する熱心な活動や、真摯な態度を生き生きと伝え、コレクションが生長する過程も読み取ることができる。ドラッカーのなかで日本美術コレクションがいかに大きな領域を占めていたのか、ドラッカー関係者にとっても全てが未知の内容であり、反響が大きかった。一方でこの資料の実物が展観された初の機会としても注目され、資料の保存・整理を継続するため、早速にその手当がついたというのは最新のよいニュースである。

本展で初紹介した狩野探幽《波に兎図》は、1991年に入手されたもので、おそらくドラッカー最後の収集品である。今回ドラッカー家のファイルから見出された未刊の一文“Love Letter to Japanese Art”も、同年の執筆であり、こう締めくくられていた。「今日に至っても、私の日本美術への愛は情熱的に続いているのである。」 あのドラッカーがここまで繰り返し熱く語ったものは何だったのか、是非ご自身の目で空間に身を置いて確かめていただければ幸いである。

狩野探幽《波に兎図》 寛文8年(1688)

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