#064 「千年企業」へ。(1)
真田千奈美((株)京山城屋代表取締役、(株)真田専務取締役)
取材/中野羊彦(ドラッカー学会企画編集委員)・上野周雄(ドラッカー学会企画編集委員)
真田の事業の変遷
ドラッカーを学び、ドラッカーを経営に活かしている経営者は多い。今回は、食品メーカー、真田(京都府宇治市)に嫁ぎ、経営を切り盛りしている真田千奈美氏を紹介する。真田は「山城屋」ブランドで、約200種類の乾物を製造、販売をしている会社である。
真田家は、1500年初頭に甲斐から香川県へ移り、江戸時代初期から米問屋を営んできた。その歴史はイノベーションの歴史と言っても良い。真田家が大きく飛躍するのが1900年、真田サダ氏が彦次郎氏を養子縁組婚姻した事によるものであった。第一のイノベーションは、1904年に東本願寺から「山城屋」の屋号を賜り、煮干し問屋を開業したことである。サダ氏が、貧しい漁師に対して常に立派な御殿、夜具、ご馳走、酒を用意して、煮干の収穫を待った。そのためこぞって山城屋に煮干しが集まり、昭和初期に全盛期を迎えた。しかし、第二次世界大戦の空襲や農地改革によってほとんど財産をなくし、サダ氏は小さな乾物問屋としてゼロから再スタートをした。
ここで更なるイノベーションが起きる。1958年にはスーパーマーケットの幕開けに目をつけ、周囲の反対を押し切って四国から大阪に進出した。それまで、香川県の小さな乾物問屋だったのが、大阪のスーパーの専門問屋となった。このイノベーションのけん引役だった中興の祖が、サダ氏が、商才のある女性として目をつけ、孫・和夫氏の嫁として迎えた真田悦子氏だった。千奈美氏の義母にあたる、
更に1983年には問屋からメーカーに業態転換した。これもイノベーションである。これは、千奈美氏の夫、取締役の真田佳武氏が主導した。「大手スーパーの購買力が高まるなか、うちのような中小卸は生き残れない」と考えた。そこで、それまでの大口の取引をやめ、売上高30億円の問屋から売上高5億円ほどのメーカーとして再スタートを行った。
千奈美氏は、1982年に佳武氏と結婚した。千奈美氏の実家も商売人の家であり、千奈美氏の祖母が見合いの相手を決めた結果である。祖母の、見合い相手の選択の条件は、単に商売人の家というだけではなく、「女性に商売の仕事をさせてくれる家か」ということであった。真田は、真田悦子氏が経営しており、女性に仕事をさせてくれる家であった。そこで見合いを行なった。佳武氏とも気が合ったので結婚した。結婚した途端、1983年に問屋からメーカーに業態転換するというイノベーションを行った。
この時、イノベーションを起こしたと同時に、未来に不安を持った社員の多くが辞めた。千奈美氏は、悦子氏から、「あんたしか仕事をする人はおらん」と言われた。社員が辞めたため、千奈美氏は結婚してほどなく、メーカーになった時点から会社の仕事に関わることができた。
その後、事業は順調に伸びた。強みのあった乾物分野の知識を生かし、当時まだ珍しかった「金ごま」を「京いりごま」の名前で商品化し、大ヒットさせるなど、高付加価値路線で軌道に乗った。2005年には36億円の売り上げにまで成長した。
ドラッカーとの出会いと経営者としての覚醒
しかし、その真田も、2006年から2期連続の減収に陥った。それまで25年間、右肩上がりで伸び続けていたのに……。当時はまったく理由が分からなかった。更なるイノベーションが必要であった。
千奈美氏は打開策を考え、「京の乾物屋」としてのブランドの確立が、一つの方向性ではないかと思い至った。山城屋は京都の東本願寺から屋号を頂いた。本社を移転してはどうか。当時の真田には3つの大きなヒット商品があった。「京いりごま」に加え、「京きな粉」、そして副菜の材料になる乾物と調味料をセットにした「京のおばんざい」シリーズ。いずれも商品名に「京」を冠している。しかし、本社工場は大阪府守口市にあった。
「本社移転で、名実ともに京都ブランドになろう」。この妻の提案に、社長になっていた佳武氏が乗り、早速、京都府内に土地を手当てした。しかし、それだけで京都ブランドが確立されるわけではない。
京都ブランドの会社として、いかに経営を立て直すか。そう悩んでいたとき、千奈美氏はたまたま電車で、立命館大学のMBA(経営学修士)コースの広告を目にする。「経営を一から学び直してみよう」。そう考えて2008年春、入学した。そこでドラッカーと親交が深かった上田惇生氏の授業を受けた。千奈美氏は、土曜日と日曜日に立命館大学に通ったが、土曜日の6月より上田先生の授業があった。千奈美氏は、ここで初めてドラッカーと出会った。ドラッカーに「何によって憶えられたいか」という基本的な問いがある。このドラッカーの問いが千奈美氏の心に強く響いた。
千奈美氏は、自分の生きる意味をあらためて考えた。それまでの千奈美氏は、肩書きこそ専務だったが子育てにも追われ、経営陣としての意識は必ずしも高くはなかった。経理も行っていたが、家計簿をつけているような感覚だった。その中で「自分は何をもって覚えられたいか」を真剣に考えた。そして、山城屋を1000年企業にしようと思った。「私は嫁だ。何か特別なことをやろうとするのではなく、同族会社でうまくいく方向性を考えよう。息子が後を継ぐ、社員が暴走するのを防ぐ、このためにも、山城屋を1000年企業にすることを指針にしよう」と思った。嫁ぎ先の真田は、山城屋として創業して 113年になる。その歴史は、多くの先人たちに支えられてきた。その一人に自分も名を連ねたい――。
「自分の役割は、100年企業の山城屋を1000年永続する企業に育てること。その礎をつくった者として後世に憶えられたい」と思った。1000年続くための行動は何か、社員と話し合った。これにより、山城屋の商品基準が明確になった。社員の心が一つになった。
商品アイテムの絞り込みと生産者との連携
企業の経営を考える時、ドラッカーが必ず出す問いがある。「我々の事業は何か」である。乾物メーカーとしての真田の強みは何か、真田を特徴づけるものとは何なのか。
深く突き詰めて考え、「我々が手掛けるのは良き生産者とともにある事業」だという結論に至った。江戸時代は米問屋を営んでいた真田家。その後、取り扱う商品こそ変化したが、「生産者を大事にする」方針を貫いてきた。メーカーへの転身が消費者に支持されたのも、良い原材料を確保できたからだ。我々の事業とは、「良き生産者との協業により、品質重視のこだわりの乾物を、適正な価格でお届けする」ことである。
そう考えると、2期連続減収の原因も見えてきた。スーパーに対する売り上げ拡大のため、価格競争に巻き込まれた。そのため、必ずしも高品質とは言えない商品が出てきた。そして、それらの商品が価格争いに負けて徐々に売り上げが下がり始めていた。千奈美氏の心に響いたドラッカー言葉が、もう一つある、それは、「次のものを入れるために今あるものを捨てろ」という言葉だった。新しい商品を開発するためには、事業に合わない商品や昨日の商品は捨てなければならない。千奈美氏は、自社のコンセプトに合わない商品は廃止した。300アイテムの商品を200に絞った。
同時に実施したのが、良き生産者の発掘による新商品の開発である。千奈美氏は、ストーリー性がある生産地を探し出し,生命を与え,乾物文化を守って行くことが、真田の大きな役割であると考えている。現在、日本の農業や水産業などの第一次産業は転換期にある。それまで日本の生産者が守り育てていた各地の特産品も、海外の安い一次産品や生産者自身の高齢化により、衰退していくものが多い。しかし、一方で日本の高品質の一次産品を望んでいる消費者も数多くいる。真田はお客様の声を聴いて、それを生産者に作って頂く。真田は消費者(食品製造者として)のための目利きをする。これが真田の役割である。このため、全国各地の生産者の情報収集に励んだ。その結果、滋賀県甲賀市の干瓢、明石海峡産わかめ、長崎県の五島灘の湯がき大根など、数多くの生産者を真田が発掘して育てた、そしてこれらの商品をスーパーに売った。
現在、日本の第一次産業の再生のキーワードとして、「農商工連携」や「6次産業化」がある。「農商工連携」とは、真田のように加工、商品企画、販売を持っている中小企業と、農林漁業者が有機的に連携して、新しい商品・サービスを作り出すことである。「6次産業化」とは、農畜産物、水産物などの第一次産業だけでなく、食品加工(第二次産業)、流通、販売(第三次産業)にも農業者が主体的かつ総合的に関わることによって、第一次産業を活性化させようというものである。第一次産業の1と第二次産業の2、第三次産業の3を足し算すると「6」になることをもじって「6次産業化」と言っている。「農商工連携」「6次産業化」いずれも、単に生産者が生産物を作って単純に売るだけではなく、加工や販売などと有機的に連携し、付加価値を高めようという施策であり、政府が旗を振って進めている。
真田は、政府の施策に沿った農商工連携や6次産業化にも取り組んでいる。農商工連携により京都府与謝野町でのごま・大豆・唐辛子などの生産に取り組んだ.こうして「京都産金ごま」「京きな粉チョコレート」「京唐辛子」「京七味」「京一味」などの商品が生まれた.これらは、京都だけの農産物を使い、京都ブランドとして販売している。また、2014年7月には、「農産物の工業加工」として、乾燥野菜工場を京都府 与謝野町に竣工し、野菜の6次産業化も進めている。