#001 ドラッカーの書斎

井坂康志(ドラッカー学会 理事)

 

2017年2月、私が主催する渋沢ドラッカー研究会の仲間たちとともに、ドラッカーの自宅が残るアメリカ・カリフォルニア州のクレアモントを訪れた。

植栽のはるか彼方に、白く峻険な山並みを目にすることができた。生活感といえるものはていねいに取り払われていたけれど、哲人の発する残り香のようなものはそこはかとなく漂っている。確かにかの哲人が身を置いたささやかな一隅だった。

自宅は平屋である。ただに質素という以上の何かがある。私の知るイメージで近いものをあげれば、能舞台かもしれない。意識的に形成された場と霊妙な何かが出会うときに発せられる静寂な質朴さである。

2005年5月に訪れたときと比べれば、塀が取り払われ、いくぶん明るい色調に塗り替えられてはいる。書き物に疲れるとタイプライターの手を休めて、窓の外の風景を目にしたのだろうか。

表から埃っぽい扉を開ける。何の中間地帯もなく、一気に哲人の生活空間の人となる。かつては10畳ほどの台所を兼ねた食卓があったはずだ。今はU字にソファが配されている。たしか右手に小さなクリーム色の冷蔵庫があった。初夏のまだらの影が海の底のようにゆっくりと床を這っている。20センチほどの段があってプールに面した居間へと続く。

籐の椅子は今もそのままだ。世界と自分をしっくりとなじませるように哲人がゆったりと身を沈める。あのとき彼は人生最後の数か月をこの籐椅子にもたれて過ごした。自らの歩んだ20世紀の追憶になずむように、一対の目をひたすら中空に漂わせていた。バロック調の音楽が静かに流れている。

部屋は五部屋ほどしかない。動線はどこへでもつながっている。誰かが言ったように、山小屋に通じる。いや本当に山小屋だったのかもしれないなと思う。山小屋の本質は自由にある。哲人なら、実存と言うかもしれない。この世界では誰もが二つの世界を生きている。市民として、そして個として。

山小屋が自由なのは、個のみを考えてデザインされているからだ。個以外のものは一切意味をもたない。動線はどこへでもつながっている。鴨長明や吉田兼好が一時の仮庵を結んだように。個であろうと決意することは自由のはじめである。そんな人ならいかなる形態の神学も必要ない。信じることだけが、個として生きるのに必要にして十分な条件だった。

あらためて思う。哲人は瀟洒な邸宅を願わなかったのではない。願う必要をもたなかったのだ。だからこそ哲人は、個であることを死ぬまでやめなかったのだ。

書斎は入って右手にある。机の脇にはタイプライターが重たく置かれている。あの同じ欧州の時代を過ごしたハンナ・アレントは、日本からの来客に対して、「オムレツをつくるのは労働、タイプライターを叩くのは仕事」と話したという(『人間の条件』)。

6畳ほど、台所とはほとんど隣り合っていて、ものを考えることと生活とが区別されていない。労働と仕事の間にさしたる垣根は見あたらない。きっと夫人のたてるコーヒーやオムレツの香りは、やわらかに舞い込み知の室を満たしたことだろう。

哲人がいくぶん前屈みに、細い指先で叩く姿が目に浮かぶ。練達の射撃手のようにときどき眼鏡の位置を調整し、にらむような眼で、口をとがらせて、真剣に粟粒のような文字列に視力のすべては注がれる。口の中で何かをつぶやく。見えない誰かと対話するように。

このタイプライターが、哲人の内面世界を可視化してくれたのだ。心から尊敬したくなる。ふと思い出す。たしか仏壇の広告だったろうか。「形は心」とあった。形は現象化した内面なのだとそれは主張していた。

考えれば、哲人の名の由来は印刷人だった。先祖はオランダで宗教書の印刷を営んでいた。2005年、まさにこの場所で、哲人は活版印刷の発明が、世界を根底から新しくしたのだと私に語ったのだった。印刷人が世界を新しい場所にした。哲人は言った。「最も意味ある変化は、意識の変化にある」。

昔見た映画に、小型印刷機を爆弾でも扱うようにそっと森の奥に埋める場面があった。あれは何の映画だったろう。薄クリーム色のシンプルな手動印刷機は、哲人にとっての最も手近な武器でもあったのだ。ならば、さしずめ書斎は世界最強の兵舎であり、武器庫であり、参謀本部だろう。

ここで、まさにここで、哲人はみずからの時代と戦った。一つひとつのキーは、迫撃砲もかなわない意識の爆発を全世界で呼び起こした。しかも人の心という最も扱いにくい見果てぬ暗い暗渠で、その戦いは戦われたのだ。フランス革命の反乱軍や、人民解放軍もかなわないほど勇猛果敢に、繊細かつ有効に。

タイプライターを眺めてみる。心の中で語りかけてみる。彼は(あるいは彼女)は、哲人の内面とともにあった。何を聞いたのだろう。何を見たのだろう。もちろん、何も語ろうとはしない。本物の戦争を目にした人がそれを決して語りたがらないように。あるいは語らないことのみを通して秘密を共有するように。

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