イノベーションと体系的廃棄

あえてやめたことはあるか?

ドラッカーはコンサルティング先の経営者に対して、「ここ半年であえてやめたことはありますか」とよく質問していたという。意味深長な問いである。

ものごとは始めるよりもやめるほうが、はるかにエネルギーを要する。そのことについて、一つの逸話がある。

GE(ゼネラル・エレクトリック)のジャック・ウェルチがCEOになったとき、考えていたことが二つあった。一つはビジネスのグローバル化、もう一つはドラッカーに会うことだった。さっそくウェルチはドラッカーに連絡を取った。ドラッカーは、ウェルチに次のように述べたという。

「あなたの会社は小さな電化製品から原発までじつに多様な商品群を擁している。だが、もしかりに今からすべてを一から始められるとしたら、現在の事業をすべて行うだろうか」

もちろん、ウェルチの返答は「NO」だった。すべての事業をやりたくてやっているわけではない。やむにやまれぬ経緯があって続けているだけだった。ドラッカーは続ける。

「あなたはグローバル展開を考えているという。ならば、世界で一位か二位になれる見込みのないものはすべてやめてしまったらどうだろうか」

これが有名な「一位二位戦略」の始まりとされている。

やめても支障のないものは何か?

この逸話のポイントは、「世界で一位と二位への特化」を促したこと、いわゆる「選択と集中」にのみあるのではない。「何を捨てるか」についての意識をウェルチに促したところにある。

GEのような巨大企業に限ったことではない。どんな企業も、企業以外の組織も、あるいは個人でさえも、「単に昨日まで継続してきたからという理由で、今日もそれを行う」という選択をしがちである。それまで行ってきたからには、何らかの必要性があるのかもしれない。

しかし、それらは意識して見直すべきである。本当に必要かどうかを判断して、体系的な廃棄を行うことが肝心である。

組織とは生命体であり、自らの絶えざる刷新をしなければ、生き続けることができない。新たなプロジェクトに着手したり、新事業を起こしたりする一方で、有効性を失った過去のプロジェクトや事業を意識的に廃棄する努力が不可欠である。

パソコンですら、新しいアプリケーションを次々にインストールしているうちに、動きが重くなっていく。不要なアプリケーションは体系的に廃棄していかなければ、いずれはシステム全体がもたなくなる。

日々の活動のうち、やめたら支障のあるものはどれくらいあるのだろうか。ウェルチに倣って考えるならば、「もし、今からすべてやり直すとしたら、今行っていることをすべて行うだろうか」。いうまでもない。答えは「NO」である。

廃棄の尺度は「成果」である

イノベーティブな活動には必ず、過去の「保守」と「廃棄」の両方が伴う。うまくいっていたものでも、時期や環境が変われば機能しなくなる。ある時期の花形製品が、後に社の足を引っ張るお荷物になることはめずらしくない。

廃棄すべきかどうかを判断する尺度は「成果」である。過去に立てた目標と現状を照合することによって、成果をあげられたかどうかを判断する。成果をあげられないものを残しておくことは、社会に対する無責任である。

IBMはかつてコンピュータの王者のごとき企業であったが、もはやハードの製造が競争力を持たないことを悟ると、一気にハード部門を切り離してソフトウェアとコンサル事業に特化した。世で生き残っている企業は、こうした判断を行っている。

精彩を帯びなくなった活動もある一方で、並外れた成果をあげている活動もあるはずである。エネルギーと時間は、卓越した成果をあげる活動にこそ振り向ければならない。そのための俊敏さと柔軟性を確保するためには、老廃物を輩出する必要があるのだ。

もちろん、短絡的な廃棄には注意が必要である。ものごとには一見役に立たないように見えて、全体から見ると重要な役割を持つことが多くある。日本でも、景気後退期にしかるべき選別を経ることなく一律にリストラをして、業容がおかしくなるケースが相次いだ。これは「廃棄」がいかに難しい仕事であるかをよく示している。

イノベーションというと、何かと新しい取り組みが連呼される傾向がある。しかし、イノベーションを根幹から支えているのは、この廃棄への意識にほかならない。

 

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