知識社会 

現代は知識社会

ドラッカーは『断絶の時代』(1969年)で、「資本主義を超えたところに何がありうるのか」を世に先んじて示した。この書が世に出て数年後、世界はオイルショックに見舞われ、先進国の成長に強力なブレーキがかかる。物質文明の行き詰まりが頂点に達するのを予示するように、『断絶の時代』は発表された。

脱資本主義化する世界の中心コンセプトとして、ドラッカーは「知識」を挙げた。知識が社会の中心を占める社会である。そこには、経済至上主義を批判し続けたドラッカーの思いが込められている。中心は「金」ではなく、「知識」である。

しかも、これから「知識社会」がやってくるのではない。人々が気づいていないだけで、世界はとっくに「知識社会」のなかにいるのだと強調した。

役に立つ知識

ところで、ドラッカーのいう「知識」とは何を表すのか。彼はそれを「成果を生むための手段」と見る。頭の中で考えるだけのものではない。見て、感じ取り、現実に働きかけるものである。体系化された技能と同義である。

ドラッカーは「ソクラテス以来、ついこの間まで、行動のための知識、すなわち技能は、テクネとして低い地位しか与えられていなかった」とする。しかも、それらは体系的に教えられるものでなく、徒弟制度のなかで会得すべきもの、極端なまでに属人性の強いものだった。

しかし、今日必要とされる知識とは、まさに行動のための知識である。しかも客観的で伝達可能な、体系化されたものでなければならない。

かつては役に立たない知識、生きていない知識が教養とされた時代が長く続いた。ドラッカーはその典型としてラテン語教育を挙げている。歴史を見ると、ラテン語はヨーロッパ各国で公用の書き言葉として使われていた。官吏や書記にとっての必須の技能だったからこそ、高等教育機関で必修科目にされていた。

しかし、ヨーロッパ各国の書き言葉はラテン語から各国語に変わっていく。そして、ラテン語擁護論が現れた。これはラテン語教師の失業防止策ととられても仕方がない。

連携により生命を持つ

知識は他の知識と結合したとき、爆発的な力を発揮する。

知識社会では、知識が組織によって活用されることで、社会的な意味を獲得する。専門知識を有機的に連携させる場、結合させる場が、組織である。組織とは、知識の培養器である。

また組織とは、人が目標に向かってともに働く場と、それに伴うつながりの全体を指す。「組織」というより、「ネットワーク」と読んだほうがふさわしいこともある。

現代のプロフェッショナルは緩やかにネットワークを組み替えながら、常に新しいプロジェクトで成果をあげていく。フリーランスで活動する人同士の組織も、近年ではめずらしくない。

組織と知識

先進社会においてさえ、組織の側が人の遇し方を知らないことは通常である。同時に、個人の側が組織を通して成果をあげる方法を知らないことも通常である。なぜかといえば、組織というものが最近の発明だからである。

知識社会にあって、組織と知識はともに立ち、ともに倒れる相補的関係にある。知識が中心となる社会は、必然的に組織社会である。脱大組織はあっても、脱組織はない。

1960年代あたりまでは、知識の専門化は部分的にしか進んでいなかった。戦前戦後の先進国の経済にあって、成長とは工業化を意味した。人々が従事する仕事の多くは単純肉体労働であり、同じことを継続的に行うことが何よりも重視された。大規模な生産システムを構築し、それを継続しさえすれば、工業を中心とする社会は半ば自動的に成長軌道に乗ることができた。

だが、工業化には自ずと限界がある。工業は投入する資源価格の影響を受ける。また、商品が社会の隅々にまで行き渡ると、やがて消費も飽和点を迎える。さらには1972年にローマクラブのレポート『成長の限界』が示したように、環境問題という制約が顕在化する。やがては物質文明のピークに時代は逢着することになった。

人のみが持ちうる資産

しかし、知識を中心とするならば、そのような制約はむしろ乗り越えるべき絶好の機会だといえる。

知識は無形であり、精神的能力である。人間のみが持ちうる資産である。知識はエネルギーであり、その適用対象は変転してやまぬ人間社会である。

ドラッカーの妻のドリスさんは、「知識は正しく用いられるならば、世界の飢餓問題は消滅するだろう」という晩年のドラッカーの発言を伝えている。

  • ドラッカー学会 Drucker Workshop