ダイバーシティ
グローバル社会における均質性
「多様性」についてのドラッカーの発言は、「多様性は望ましい」といった程度の生やさしいものではない。「多様性がなければ社会がもたない」という、きわめて切実な緊張をはらむ主張である。
ビジネスシーンでも教育現場でも、「多様性」や「個性」はポジティブなものとして扱われることが多い。だが、ときに「この社会は本当の意味で多様性を欲しているのだろうか」と疑問に思うこともあるだろう。現実社会においては、むしろその逆に、均質性の高まりさえ感じさせられる。
グローバル社会だからといって、多様性が自動的に付帯するわけではない。海外に旅行に出かければ、先々でスマホに釘付けの人々の群れを目にするはずだ。スマホ中毒は日本独自の現象でも何でもない。「世界にはこれ以上の均質性はいらない」とドラッカーは言う。
必要なのは多様なモデル、多様な成功、多様な価値観である。
企業の例でいえば、会社の取締役会である。取締役の面々が、判で押したように似たような経歴、似たような専門性の場合、個々の能力がいかに高かろうとも、チーム全体としての力は脆弱になる。“四番バッター”しかいないチームは思いのほか脆い。
イタリアの同族マフィアでも、幹部の一部はあえて一族外から迎え入れるという。多様性を意識的に維持しておかないと、ちょっとした変化にも対応できなくなるためである。
反対意見は「なくてはならない」
ビジネスだからといって、ビジネスパーソンだけで意思決定を統一するのは危険である。ある論者は、取締役会には詩人がいたほうがよいと言う。しばしば公益法人などの幹部会に作家が入っているのは、おそらく似た発想だろう。
同じことは、ほかの領域にもいえる。教育にせよ政治にせよ、すべて専門家だけに任せてしまう危険性は、影響力が大きければ大きいほど、取り返しのつかないものになる。
昨今、政治などでも反対意見があまり聞かれないが、反対意見が聞かれるのが健全な状況ではないか。反対意見は「あったほうがよい」のではなく、「なくてはならない」のである。
自然科学においても、反証可能性、すなわち異なる視点からの批判的意見がなければ、命題の正しさは支持されえない。自然科学でさえ、これまで何度も批判に晒され、そのたびに修正を余儀なくされてきた。まして、政治・経済・社会といった純然たる人間活動ならなおさらだ。
ドラッカーは1946年に公刊した『企業とは何か』で、組織での多様性の確保が企業全体の生命線になることを述べている。同書は、巨大自動車メーカーGM(ゼネラル・モーターズ)の内部調査を経て書かれたものだ。そのなかで、「スローン会議」と呼ばれる、GMの独特の会議の流儀を紹介している。
スローンとは、GMの会長だったアルフレッド・スローンである。彼は重要事項を決定する際に、反対意見を見ない場合は決定を延期したという。満場一致の意思決定は、判断を誤りやすいばかりか、誤った決定を取り消せないというリスクをもはらんでいる。
たった一つの意見でしか決定がなされないならば、何も決定しないほうがましだという考え方である。一つの原理しか据えないならば、ものごとは悪い方向に行く……、これは20世紀の負の歴史から私たちが学びうる最大の教訓であろう。
仕事オンリーは双方のためにならない
ドラッカーは、企業のマネジメントを体系的に分析し始めたのとほぼ同時期に、個々の人生にまでマネジメントを適応した発言をしている。
「えてして会社は、自らの経営幹部に対し、会社を生活の中心に据えることを期待する。しかし仕事オンリーの人たちは視野が狭くなる。会社だけが人生であるために会社にしがみつく」(『現代の経営』)
会社の仕事だけしかない人生は、仕事そのものに対してさえマイナスである。これは、先の取締役会の例と同じ理説に基づく。たしかに会社は、個々の社員に会社中心の生活を暗に強要するところがある。
「雇用関係とは、もともときわめて限定された契約であって、いかなる組織といえども、そこに働く者の全人格を支配することは許されない」
これがドラッカーの持論である。会社中心主義への誘惑あるいは強要に屈してはならない。このことは、人生の後半にさしかかった方々、年齢では40歳を越えたあたりから、がぜん意味を持ち始める。
仕事オンリーの人は、「空虚な世界へと移る恐ろしい日を先延ばしにするために、自らを不可欠の存在にしようとする」とドラッカーは言う。
一方が縛り、一方がしがみつく関係が、生産的であるはずがない。自由で創造的であるはずもない。