すでに起こった未来

未来はわからない、現在とは違う

ドラッカーには“未来学者”と呼ばれた時代があった。当時は、ハーマン・カーンやダニエル・ベルなどの未来学者が一世を風靡した時代だ。対してドラッカーは、「自身は未来学者ではない」と断言していた。

その理由には、“未来学”に伴う疑念とともに、「未来など誰にもわからない」というごく当たり前の事実がある。誰かが予測したことが、たまたま現実となることはあるかもしれない。しかし世の中では、誰も予測しなかった重大なことがあまりにも多く起きている。

中世西洋の著名な占星術師の逸話がある。その占星術師は、自分自身の命日を予言し、それを大々的に世間に公表したという。時が流れ、やがて公言した命日が近づいてくる。本人はいたって健康で、いっこうに死ぬ気配はない。当日になった。やはり死ぬ気配はない。彼は自らの予言が当たらなかったことを悟り、ひどく落胆した。そして、その日のうちに自ら命を断ったという。

ドラッカーは言う。

「未来について言えることは、二つしかない。第一に未来は分からない、第二に未来は現在とは違う」(『創造する経営者』)

未来をわかると公言する人は、例外なくいんちきだと見なしてよい。同時に、未来と現在が異なることも確かである。「未来はわからない。けれど、現在とは違う」と意識することで、未来に対する感覚は研ぎ澄まされるだろう。

今・ここを観察する

未来を予測せず、認識するためのシンプルな方法がある。「すでに起こったこと」の帰結を見ることである。観察対象はあくまでも「今・ここ」である。

「すでに起こったこと」が未来に特定の事象として立ち現れるまでには、一定のリードタイムがあるのが普通だ。典型的なのが人口問題である。

ドラッカーは何を語るに際しても、人口という指標をきわめて重視した。なぜなら人口問題は、ほぼ確実に読めるからである。20歳の人は40年という年月が経過すれば、生存している限り60歳になる。当たり前であるが、これは注目に値することである。

近年、「団塊の世代」が新たな文脈で脚光を浴びている。その世代は自我意識が強いといわれ、生まれてから、青年、中年を経て高齢にいたるそれぞれの過程で、社会に巨大なインパクトを与えてきた。学生運動で暴れ回ったエネルギーは今もなお健在であり、定年を迎えておとなしく家でお茶をたしなんでいるとは思えない。

団塊の世代が定年後に、また一つの潮流を創造する。こうした未来は、かねてから指摘されており、現実としてそうなっている。これもまた人口問題の派生的現象である。

推測するな、保守的にいけ

「すでに起こったこと」を観察すれば、そのもたらす未来が見えてくる。ドラッカーはそれを「すでに起こった未来」と名づけた。

この考え方をするときに、重要な留意点がある。いかなるときも強調する一つの訓辞だが、「保守的にいけ」というものだ。「わかったもの」を使うことである。あるいは「習熟したもの」を使うことである。

よくないのは、「何が起こりそうか」を推測して行動してしまうことだ。人に未来を知ることが許されていない以上、どんなにもっともらしくとも、その本質は博奕以上のものではない。

かつてノーベル賞学者を何人も集めて創設されたヘッジファンドは、「私たちは世界のあらゆるリスクに賢明に処することができる」と豪語したにもかかわらず、結局破滅した。かの天才ニュートンでさえ、チューリップの投機で大損している。

「すでに起こったこと」をもとに考えることは、天才の直観に勝るのだ。

課題先進国・日本

東京大学元総長の小宮山宏氏は、日本を「課題先進国」と呼ぶ。日本には、世界のトップリーダーとしての未来の種子が多くあるという。

たとえば原発のような深刻な問題であるほどに、先に経験したものが有利ということである。現在、中国やアジア諸国では新しい原発をさらに創設しようとしている。日本の経験は、いずれ世界の宝になる可能性が高い。

高齢社会も同じである。高齢社会は日本のみの現象ではない。世界各国の人口統計を見てみると、いくつかの例外を除けば、先進国では出生率が下がっている。中国でも人口の伸び率は急激に鈍化する。

いざそのときがきたら、各国は何を考えるだろうか。先進事例がないか、そこから何か教えてもらえないかを、血まなこになって探すだろう。小宮山氏のいう「課題先進国」とは、やがて「機会先進国」に転換しうる可能性を秘めた考え方といえる。

すでに日本は似た事例をいくつも経験している。1950年代から60年代の高度成長期に、水俣病をはじめ深刻な公害が日本社会を深く傷つけた。その認識が法や政治・経済などを変え、日本の環境意識を大きく伸長させたのである。

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