日本画と知覚

日本との出会い

ドラッカーと日本との関わりが始まったのは23歳、1933年にロンドンのマーチャントバンクで働いていたころだった。勤務先からの帰途でにわか雨に遭って雨宿りしたところ、偶然にもピカデリーの一角バーリントン通りの建物で、ロンドン最初の日本画展が開催されていた。

日本画はドラッカーの心をわしづかみにした。以来、彼は博物館や展示会に足繁く通っては、いっそう日本画鑑賞に浸っていく。戦時中ワシントンにいたときにも、時間の許す限り日本画の所蔵で有名なフリーアというギャラリーを訪れている。

1959年に初訪日が叶って以来、日本の掛け物を熱心に継続的に収集した。とくに水墨画を魂の糧とし、装飾的で技巧に優れた江戸時代の狩野派の作品よりも、室町桃山時代の禅画に心惹かれたという。19世紀のヨーロッパで大流行した浮世絵にはまったく関心を示さなかったようだ。

わけても白隠(江戸中期の臨済宗の僧であり、禅画の大家)による禅画、とくに達磨絵を好み、作品に見る思想的内面を重視した。単なる異文化の美的体験にとどまることがなかった。いつしか人生において必要欠くべからざるものとなっていた。ドリス夫人によれば、「正気を取り戻し、世界への視野を正すために、日本画を見る」「目を見開くことを学ぶことによって、知覚が開発された」という。

日本画 〜情報の精髄〜

ドラッカーは1970年以降に西海岸に移ってからは、ポモナ・カレッジで東洋美術を教えた。「日本画は空間を描いた。空間とは理性ではなく知覚である。だから日本は外国の文化を消化できた」とした。

ドラッカーは明治維新の偉業を強調し、それを日本の西洋化ではなく、西洋の日本化であったとした。それも、彼の日本画解釈と同じパースペクティブに基づいていた。

知覚を開発するのに、日頃からドラッカーが心がけていたことがある。彼はものを見るにあたり、動くものを避けていた。動かざる情報が閉め出されるとき、人類が何を失うかを直観的に理解していた。真の情報は変わらざるものだった。テレビや映画などはほとんど観なかったし、パソコンに触れることもなかった。インターネットもしなかった。

ドラッカーにとっての「情報」とは、きちんとした形で紙上に印刷されたもの、「動かざるもの」でなければならなかった。自らの精神的・文化的価値を、自らのリズムで、自ら見いだすもの、自らの手で受けとるべきものだった。

日本画から受けるメッセージが、まさにその動かざる情報の精髄だった。自らの半生を書いた『傍観者の時代』では、日本画のように意識的な省略や焦点の凝視がなされている。ドラッカーは自らの視覚の働きを全面的に日本画に仮託していたのだろう。微細な眼の動き一つひとつについて、禅画が代わりに表象してくれているかのように感じていたかもしれない。

ドラッカーは、日本を知覚の国として尊敬していた。西洋と東洋をつなぐブリッジ役として、その最後の目を閉じるまで深く期待をかけていたという。

 

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