アメリカでの知的探索

巨大企業GMの調査活動

アメリカの地を踏んだドラッカーは、生まれて初めて青い海を見た気持ちになったという。当時にして文明を先取りした国であると彼は直観した。当時のヨーロッパは、王様や貴族、役人、軍人たちが中心の社会。一方、アメリカでは企業が繁栄を極め、社会の中心にいるのは企業で働く普通の人たちであった。

とはいえ、まだドラッカーの関心は経営にはなかった。あくまでも社会の秩序と調和の源泉の探索が、彼の主要な関心だった。そんな折、思ってもみない話が舞い込む。アメリカを代表する企業GM(ゼネラル・モーターズ)が、ドラッカーに内部調査を許諾するという申し出である。

ドラッカーはGMの幹部から現場まで詳細に見聞を行い、この大企業がいかなる原理で動いているのかを見極めた。組織の「マネジメント」という尽きせぬ鉱脈を掘り当てた彼は、1946年に『企業とは何か』を刊行。これがマネジメントに関する最初の書物である。

「発明」された「マネジメント」

「マネジメント」は「発明」されたものである。ドラッカー以前の時代にマネジメントが行えるのは、一部の天才のみだった。いまだ体系化されざる知識だった。体系化された知識の特徴は、学ぶことができるということだ。

マネジメントには、さまざまな出自を持つ知識が縦横無尽に織り込まれている。科学的な知見もあれば、証明不能な実際的手法もあり、現実の用に供することのできる知識が貪欲に取り込まれた。ドラッカー亡き後さえ、自律的に発展していく可能性を秘めた知識体系である。

ドラッカーの知的関心は、この鉱脈がどこにつながり、世界の成り立ちにどのような有益な知を提供してくれるのかへと移行していく。

マネジメント・ブーム

さまざまな組織にまつわる見聞を経て、1954年には体系的なマネジメントの書物『現代の経営』が刊行された。同書の画期性は強調に値する。事業部制、バランススコアカード、目標管理など、現代の経営学説の多くは、この書物を嚆矢とするものだ。ここから世界的なマネジメント・ブームが巻き起こる。

日本でドラッカーの名が知られ始めるのもこのころである。1959年に初来日、箱根でセミナーが開催され、多くの経営者を集めた。当時、『現代の経営』に触発されて自ら事業を創造し、発展させた経営者は数知れない。ソニー、松下電器、オムロン、トヨタなどが代表格である。

キッコーマン名誉会長の茂木友三郎氏も、慶應義塾大学在学中に『現代の経営』の翻訳を手にして、アメリカ留学を決意したという。当時、名実ともにマネジメント先進国であるアメリカで要諦を学んだことが、醤油をグローバル商品とする礎となったと語っている。

その後も、ドラッカーは探求の手を休めることはなく、GE、IBMなどの巨大企業の内実を丹念に観察していく。

60年代後半には、『断絶の時代』などの時代診断の書を通じて、知識社会の到来を世に告げた。

71年には、それまでの知見をさらに体系的にまとめた『マネジメント』を刊行。同書は『現代の経営』の主題を忠実に引き継ぎながらも大幅に加筆・改訂のなされた、いわば集成的書物である。

イノベーション、マーケティングを探索

1970年代前半、ドラッカーはニューヨークでの都会生活に区切りをつけ、温暖なカリフォルニアに移住した。穏やかな生活環境を獲得し、いっそう創作に励むことになる。それから20年ほど、“マネジメントの応用編”ともされる「イノベーション」や「マーケティング」といった支流探索に乗り出していく。

1985年には、事業を刷新して高度化するための知見を体系化した『イノベーションと企業家精神』を刊行。折しも80年代のサッチャー改革のなかで、同書は企業のみならず、あらゆる組織に刺激を与え続けている。

『非営利組織の経営』の刊行

90年に入ると、NPO経営の基本書ともなる『非営利組織の経営』が刊行された。当時、企業の敵対的買収といった資本主義の行き過ぎが世を損なう現象を見て、企業のマネジメントのみでは人間の自由と尊厳が担保されえない時代の到来を予期したのである。ドラッカー自身、若いころから教会をはじめ非営利活動にも携わっていた。

ドラッカーは、マネジメントを企業特有の機能、あるいは企業の専有物とする見方は、早い段階で拒否していた。あらゆる目的の組織、あるいは個の人生や社会全般にまで応用可能であるとの確信があった。

『非営利組織の経営』は、かかる信念の具現である。地域活動や教会、 病院、大学、ひいては野球部にいたるまで適用可能な方法だ。現在もマネジメントを自分の領域に引き込み、成果に結び付ける事例は数多く、とくに医療分野、理学療法、福祉、教育関係などにおいて人気が高い。

 

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