家庭環境と少年時代

上層中産階級に生まれる

ドラッカーは1909年11月19日、ウィーンに生まれた。解体前のオーストリア=ハンガリー帝国の首都である。上層中産階級の生まれであり、父のアドルフは政府高官、母のキャロラインは神経科医の有資格者だった。

中産階級といっても、おそらく所得レベルでは社会全体の上層数パーセントだっただろう。当時の中産階級とは、指導者を再生産する機関であり、社会における秩序を積極的に創造する機能を担っていた。上層と下層をつなぎ、真の社会的リーダーを輩出する責任階層ともいえる。

父のアドルフ・ドラッカーはもっぱら貿易・金融畑を歩み、エリートとして名をなした。ウィーン大学卒業後、官職に就き、貿易省次官などを歴任。退官後、銀行の頭取やウィーン大学の教授を務めた。その後、1938年秋、ナチスの迫害から夫婦ともにアメリカに逃れ、渡米後ノースカロライナ大学に職を得て国際経済学を教えている。65歳になる1941年以降はワシントンDCのアメリカン大学で教鞭を執りながら、関税委員会に籍を置き、政府関連の仕事もしていたようだ。

母のキャロラインは、ウィーン大学で医学を修めた後、チューリッヒの神経科クリニックで1年ほど助手を務めた。専門は神経科で、医師資格を持ちながらも開業することはなかった。若い頃、フロイトの受講生であったことが知られている。

テクノロジストとアーティストからの影響

ドラッカーの家系には、医者や法律家のほか、音楽をはじめとする芸術家も多い。また、彼は幼少期から青年期にかけて、フロイト、マーラー、シュンペーター、ミーゼス、トーマス・マン、モルトケなど、時代を代表する才能と直に接する機会に恵まれた。

家庭生活を彩るエピソードとして、幼少期に自宅で定例的にサロンが開かれたことをドラッカーは回想する。当時のサロンは、社交の場というよりもそれぞれが文化的な共同体として機能していた。集う人々の顔ぶれで所属がはっきりするほど、サロンは階層と一体のものだった。

ドラッカー家のサロンも例外ではなかった。J・ビーティのインタビュー(『マネジメントを発明した男 ドラッカー』)によれば、両親はどちらも数学と哲学に関心を持っていたという。ドラッカー家のサロンでは、日によって医学、数学、音楽が話題になった。多いときには週に2、3度開かれていた。

そのような家庭環境が、ドラッカーの思想形成に影響を与えたことは想像に難くない。彼は何かを語るとき、外科医や指揮者の例を好んで挙げる傾向があった。

フロイトに会う

ドラッカーは、ゲーニアが創設した協同組合食堂で両親にフロイトを紹介されたときのことをこう回想している。

「私は、フロイトと握手をさせられた。フロイトと私のつながりはそれだけである。子供の頃握手をした他の大人のことは全部忘れたのに、フロイトだけは未だに覚えているのは、そのすぐ後、両親にこう言われたからだった。『この日のことを憶えておきなさい。オーストリアで一番偉い人、もしかするとヨーロッパで一番偉い人にお会いしたんだよ』『皇帝よりも偉い人?』『そうだよ』。この『一番偉い』という点が強烈な印象として残ったのだった」(『傍観者の時代』)

ただし、後のドラッカーはフロイトを評価していない。母もフロイトを評価していなかった。むしろマルクス同様に世界の成り立ちを一元的に説明しようとした、悪の思想家としてとらえていたふしがある。後のインタビューでも、「フロイトは悪い人だったと思う」と述べている。

当時のドラッカーの周辺には20世紀最高の知性がごく日常的に登場する。ドラッカーはそのような空気をごく当たり前のものとして呼吸し、彼自身になっていった。

少年ドラッカーの「強み」を見いだしたエルザ先生

ドラッカーは小学校時代、ゾフィーとエルザという姉妹の教師に教わった。『傍観者の時代』では、そのときの記憶が、温かな時代の空気感とともに綴られている。彼は後年、この姉妹の教師のもとにあった1年間を「いい思いをしすぎた、あるいは二人にかぶれた」と回顧している。

当時ドラッカーは週6日、1日4時間、エルザ先生の授業を受けていた。そして、エルザ先生こそが、ドラッカーの強みを見抜き、伸ばした最初の先生だった。教師の描写の中でも、エルザ先生についてのものがわけても生き生きと深いリアリティを持って迫る。

ドラッカーが“観察者”として腕を磨いていくプロセスのなかで、小学校時代は意外なほどの重みを持つ。その一つが、彼の性癖ともなった教師観察である。後の人生においても、イギリスでのケインズ(経済学者。ケインズ経済学と呼ばれるマクロ理論を構築)の授業をはじめ、さまざまな授業や講義にもぐり込み、教師を観察した。生涯にわたる高尚な趣味だったようで、「私はこの教師観察を知的な楽しみとして推奨したい」と述べている。

ドラッカーがこの教師観察の成果として見いだした原則がある。「生徒には一流の教師を見分ける力がある」というものだった。

教師のタイプは千差万別である。威圧的な者もいるし、親しみやすい者もいる。四六時中冗談を言っている者もいれば、にこりともしない者がいる。それでも教師を理解するという一点において、生徒の眼ほど確かなものはなく、合理的なものはない。マネジメントにおける顧客に比すべきものがあるという。

ドラッカーが小学校時代に学んだのは、「強みを体系的に引き出し、成果をあげる方法」である。エルザ先生はドラッカーに一冊のノートを渡し、一定のルールに従って書き込ませることで、彼の「強み」を見いだした。『傍観者の時代』で、「エルザ先生のワークブック」として紹介されている。

ドラッカーの場合、読書と作文が得意だった。先生と二人三脚でノートに目標と成果を記述し、その「強み」を伸ばしていった。ドラッカーはあるところで、「私は紙とペンさえあればいつまでも退屈することのない人間だ」と述べている。

その後、中高一貫のギムナジウムで基礎教育を終えてからは、単身ドイツに移る。生まれ故郷のウィーンの回顧趣味が好きではなく、早く新しい世界に出立したいと望んでいたようだ。

 

< prev   next >

  • ドラッカー学会 Drucker Workshop