会社勤めをした青年期

ハンブルグ時代

ウィーンを出たドラッカーは、ドイツのハンブルグの木綿商社で社会人としての第一歩をスタートさせた。おそらく貿易省の高官だった父の斡旋によるものだったろう。

当時ドラッカーは、昼間は商社に勤務し、夜は図書館で読書という生活を反復していた。いわば判でついたように同じ生活をしていた。1年半という短い期間ながら、ドラッカーにとってのハンブルグ時代は、いくつかの重要な思想上の出会いと深化、そして吸収の時代となった。

ウィーン出立の記念に父アドルフが息子に手渡したのが、バルタザール・グラシアンの本『The Art of Worldly Wisdom』だった。グラシアンは17世紀スペインの修道僧で、自己啓発の世界においては知る人ぞ知る人物だ。ドラッカーと親友だったドイツのコンサルタントであるヘルマン・サイモンは、自らへの書簡の中でドラッカーが次のように書いていたと紹介している。

「72年前、ハンブルグの商社見習いのためにウィーンを出立したとき、記念に父がくれたのがグラシアンの本でした。(略)それから何カ月かして出会ったのがキルケゴール(デンマークの思想家。個的実存を重視し、後の実存哲学に大きな影響を与えた)でした。この二人の著作が私の人生の支柱となりました。グラシアンを原書で読むために、スペイン語を独習しましたし、やはりキルケゴールを原書で読むためにデンマーク語も勉強しました」

グラシアンもキルケゴールも、ともにドラッカーの魂に生涯深く根を下ろすことになった。とくにキルケゴールについては、それから20年後に「もう一人のキルケゴール」という個の実存について述べた論文をまとめている。

ドラッカーはフランクフルトに在住した1930年前後、現地の新聞で記者職に従事していた。同じころ、彼はフランクフルト大学に籍を置いて国際法を学んだ。さらに、あまり明確に書いてはいないが、保守系の政党設立に関与していたともいわれる。

このように複数の知的領域を同時並行でカバーするスタイルは、20歳前後のころから確立されていた。複数の知軸を同時に回転させていれば、一つに問題が生じたとしても、すぐに別の行動に移れる。彼はそのような行動様式を生涯貫いた。後に自らが提唱する「知識労働者」そのものだった。

フランクフルト時代

1年余のハンブルグ生活に見切りを付け、ドラッカーは国際金融都市フランクフルトに新しい居を定めた。1928年のことだった。そこで米系の証券会社に就職するものの、翌29年の大恐慌の煽りを受けて会社は倒産した。

その後に間を置くことなく、地元の三大紙の一つとされた『フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー』に記者として採用された。証券会社にいたとき、アメリカ経済短信なるコラムを執筆していた縁によるものだった。

本人によれば、第一次世界大戦で中堅どころが軒並み戦死してしまったこともあり、若くして記者として頭角を現し、編集委員にまで抜擢されたという。4年弱の記者生活を通じて経済社会への理解を深めつつ、高度な自己研鑽を重ねることとなった。

ドラッカーがギムナジウムを出て大学に進学しなかったのは、期待しうる学びがあまりに貧相だったためだった。しかし、あくまでも専業学生になることを拒否したということであり、ハンブルグでもフランクフルトでも、大学に籍を置いたのは彼なりの作法に則ったものといえる。ドイツの大学では、勉学と職業の並立は稀なことではなかった。

ドラッカーが20歳を超えたあたりから、次第に世の中がきな臭く、血なまぐさくなっていった。ナチスが生活のなかに入り込んでくる。とにかく彼は品性に欠けるものが受け入れられない。どうあってもナチスの体制では生きられそうもなかった。1933年にナチスが政権を執り、全権委任法を成立させる直前、彼はドイツを逃れイギリスに渡った。間一髪のタイミングだった。

ロンドン時代

ハンブルグ、フランクフルトから3度目の転出を経たドラッカーは、ファシズムによる文明の破局の縁に立った。そこで、一定の距離を置いて西欧文明を眺めることを決意した。ドイツ時代の課題を自らのなかで消化し、体系的思考に結びつけていく意味もあった。

ロンドンでの生活を決意させたのは、父の友人ヘルマン・シュヴァルツヴァルトだった。彼に半ば追い立てられるようにして再びウィーンを離れ、今度はフリードバーグ商会というマーチャントバンクでアナリスト兼パートナー補佐の仕事に就いた。もうオーストリアにもドイツにも戻るつもりはなかった。

ドラッカーにとって、イギリスの文化的環境は格別の親しみの対象だった。生前の彼はイギリスのジェントルマンを理想像としていた。自宅の書斎には歴史書・哲学書・文学書が多く、とりわけイギリスの作家が好みだった。英文学を好み、晩年にもシェークスピアの全集を集中的に読んでいた。ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』を最期に近い瞬間まで手放さなかった。

ドイツでの騒擾を日常として目にしてきた彼には、沈思黙考の場が必要だった。その意味で、ロンドン時代は自らの知的探求の課題を放棄することなく、その後の応用的な仕事に向かっていく“さなぎの時代”だった。フランクフルト時代が見聞を広げるのに意味を持ったとするならば、ロンドン時代は思考を豊かに発酵させる意味を持った。

ドラッカーの高尚な趣味の一つに“教師観察”があるが、ロンドン時代も銀行で働きながらしばしば大学の授業に潜り込んでいた。ケンブリッジ大学のケインズの授業に出たときは、ケインズも学生も経済のみを論じ、「人」と「社会」について語らないのに失望して教室を去ったという。青年ドラッカーの内面を表す象徴的なエピソードである。

ロンドン時代は、あまりドラッカーの望みに沿うものを素直に与えてはくれなかったようである。数年の生活を経て、そこで妻となったドリスとともにニューヨークに向かった。

 

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